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2024年07月25日

旅館での溜息「女将とママ」

温泉宿の女将は、その宿の象徴だと思う。有名な宿には有名な女将がいる。そして、その伝説的な物語は、宿の歴史のように語り継がれていく。だから、いい宿に泊まると、その空間に「女将の人格」を感じることは多い。
自分も歳を重ねたから、あの女将たちが高齢になった今も元気にしているのかどうか、とても気になるようになった。だから、知ってる宿の話が出てくると、あの女将はお元気でしたか?、行った人にそんな質問を投げることが多くなった。息災だったと聞くと少し安心する。

まだ若造だったころ、山中温泉の宿で、客人をもてなしていたことがある。もちろん若造の僕に、大人をもてなすことはできないから、宿に委ねるしかない。その客人は優秀な経営者で、僕よりふた回りほど年長だから、若造の僕が知らない世界のことを知っていた。
そして、この山中温泉の宿「K」は、そんな客人が気に入った宿だった。ぬるい湯につかりながら外を見ると、すぐ横に「あやとり橋」、そして眼下に「鶴仙渓」の四季が味わえた。
ある時、風呂から戻ったばかりの客人に促されて、忘れ物を取りに、その脱衣場へ向かったことがある。わずか4~5分ほどの間に、さっき僕たちが使った桶や椅子、脱衣かごやタオルなどがきれいに掃除され、誰も使っていない状態に戻っていた。そして忘れ物の眼鏡は、きちんと畳んだ新品の手ぬぐいと一緒に、目立つ飾り棚の上に置いてあった。見事だった。プロの男衆の仕事だ。
この宿は、たしか10室ほどの小さな宿で、県内の人間よりむしろ県外の顧客が多いのが特徴だった。素人向けではなく玄人好みの高級な宿だ。団体向けの旅館しか知らない若造にとっては、なにもかもが知らないことばかりで、大人の世界のことだった。

その客人は、その宿「K」を気に入り、個人的にもしばしば「逗留」していたようだ。逗留するということは、昼の楽しみ方と、夜の楽しみ方に精通している、ということだ。そして連泊するから、夕食をキャンセルして、外で楽しむこともある。そんな自由気ままな使い方をしていた。
この宿には当時、「女将」と「ママ」がいた。どうやら姉妹らしいが、風貌も性格もまったく違う印象があって、この呼び名が似合っていた気がする。正式な呼び名かどうかは知らない。そう呼んでいたのは僕たちだけかもしれない。
夕方から夜、そして翌朝へと、一般的なチェックインからチェックアウトまでのお世話は「女将」の仕事だ。
顧客が望む限り、客室で会話や酒の相手をしてくれる。話題も実に豊富で博識だ。女将が去っても、手を打つと、専従の接待さんが何処からともなく、すっと現れて望みを叶えてくれた。
朝になると、預けた靴はピカピカに磨かれ、冬は暖かくして玄関に並ぶ。真冬に預けたクルマは洗車され、汚れどころか雪ひとつない姿で車寄せに運び込まれていた。「女将の技」は一流だった。

一方、午前の仕事が終わるころ、「ママ」が現れて女将と交代する。顧客が風邪っぽいから薬が欲しいと言えば、ママが自らクルマを運転して病院へ連れていく。九谷焼を見たいと言えば贔屓の作家のアトリエへ同行するし、蕎麦が食べたいと言えば、福井まで一緒に案内してくれた。
そういえば、ママに紹介された地元の居酒屋は、割烹のようにレベルが高くて感心していた。望めば会計は宿に付けれるし、もちろん、ママがクルマで迎えに来てくれる。
あるとき、急に散歩に行こうと玄関に出た。履いているのは「靴下」で、置いてあるのは下駄だからと、ママが「足袋」を出してくれた。その場で脱いだ靴下は、翌朝気付くと、洗濯されて、部屋に戻っていた。
客人が言うには、靴下だけでなく、顧客の下着まで、ちゃんと洗濯してくれるのだそうだ。それは部屋付きの接待さんの仕事ではなく、ママの仕事らしい。大人の世界は、どこまでもプロの世界に見えた。

後年、僕の年齢とともに、地元の旅館を利用する機会も増えていった。団体向けの温泉宿は、すでに卒業して、山代の「Bにや」や「Aらや」、山中の「Kよう亭」など、規模は小さいが評判がよい宿も使えるようになった。
たしかに料理や設備やサービスは、とても良いと思う。年月を経て使うと、ほっとすることも事実だ。しかし、あの「K」での驚きの対応を受けることはない。おそらく二度とないのだろう。使う側のTPOが違うからだ。
実は、家族で「K」に泊ったことがある。しかし、その日の宿は、まるで子連れの客を拒絶するように、冷たい対応を受けたような気がした。顧客が宿を選ぶだけでなく、宿も顧客を選ぶのだと学んだのは、その時だ。
もうずいぶん昔のハナシになったが、大人の世界はどこまでも不思議だと思った。
ちなみにこの宿は、今では代替わりしたようだから、もはやあの女将とママに会えそうもない。もうそんな時代ではなくなったのかもしれないな。

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