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2019年09月27日

旅館での溜息「山あいの非日常」

JR九州が仕掛ける数々の観光列車は、どれも人気なのだという。「ななつ星」「A列車で行こう」「いさぶろう・しんぺい」「海幸山幸」「あそぼーい」「たまて箱」・・・観光列車に縁はなく、興味もさほどないのだが、鉄道ファンにはたまらないのだろう、と思う。
再び時計は15年以上前にさかのぼる。このとき湯布院にくるのは3回目だった。3年連続で訪れ、魅力の秘密をどうしても確かめたかった。湯布院の宿の御三家、最後はこの「山荘・M量塔」だった。お金はないが時間はたっぷりあった。そうだ観光列車に一度は乗ってみようか。福岡空港からのレンタカーはやめて、今回はJRの特急「ゆふいんの森」を使ってみることにした。博多から2時間ほどの列車旅だ。車中では色々なサービスや企画があって、仕掛ける側も、受ける側も、それを楽しんでいるように思えた。到着した由布院駅のホームには「足湯」があって、それを楽しむ人がいて、当たり前だが驚いた。どれも初めての体験だったからだ。

当時の湯布院の街には、温泉街のお決まりのような、つまり「お土産商店街」のような古い印象はすでにない。物販店はもちろん、センスの良いカフェやギャラリーがとても多い。田舎の温泉饅頭なんかより、美しいフルーツタルトやロールケーキのほうが確かに楽しい。何年か前に、湯布院映画祭のことを知った。ずいぶん古い歴史があって「映画館のない街での映画祭」として有名だ。地域の人たちの努力の総和が生んだイベントなのだそうだ。まさに湯布院らしいイベントだと思う。
湯布院の宿の御三家は、独立して間もない当時の僕に羅針盤をくれた。「Tの湯」は膨大な努力によって、偉大なる「ふつう」を実現する宿だった(業界のプロたちは、そう評する)。「Kの井別荘」には地域の人々の揺るがぬ理念と歴史が息吹き「湯布院の誇り」を感じた。そのように比較するなら、この「山荘・M量塔」は、当時珍しいほどの高いデザインセンスで、演出上手で、とても尖っていた。つまり圧倒的な「非日常」を実現していた。

観光客であふれる中心部から、山側に登っていく。細くて急な山道をタクシーで進むと、ふいに、小さな木造の建物が出てくる。たしかに山荘だ。しかも入り口は障子貼りの小さな引き戸だった。峠の旅籠(はたご)という表現の方が似合うかもしれない。敷地はとても広く、イタリアンレストラン、美術館、蕎麦店、ケーキショップなど、どれもデザイン豊かな建物や内装の施設が点在していた。3回目とはいえ、知らなかった湯布院の別の側面を見て、この街の奥深さを感じていた。
宿泊予約はホームページで、部屋を決めるところから始まる。全て戸建ての離れで、たくさんの写真で丁寧に説明されていて、当然、内装や調度品も、価格も違っていた。今では珍しくないが、当時は画期的だった。案内された離れは、段差をうまく使ったスキップフロアで、入口から広い室内が見下ろせ、吹き抜けの広いリビングと、部屋ごとの大きな露天風呂が象徴的だった。ホームページの写真より、本物の方がいい、一発で気に入ってしまった。
宿は泊まるだけの施設ではなくて、ゆったり滞在し、好きな過ごし方をするものなのだ、と教えてくれた宿だった。以降の僕の旅は、宿選びと、宿の敷地や館内でゆっくり時間を過ごすスタイルに替わった。もうずいぶん昔の話なので、当時の写真を見ても料理の味は覚えていない。Tの湯も、Kの井別荘も、料理は美味しかったが、このM量塔が一番だと、その日に思ったことは間違いない。いずれまた、湯布院へ行こうと思っているのだが、そのときは、M量塔を選ぶのではないかと思う。
山荘・M量塔 sansou-murata.com

後日談
つい先日、奥能登ドライブ企画の帰り道、くじ引きで決まった同乗者は女性ばかり3人で、助手席にはY野さんが座った。「O島くんは、湯布院の宿、どこが好きなの?」、唐突な彼女の問いに驚かされて、運転する手にグッと力が入ってしまった(笑)。彼女が、しばしば編集後記を楽しんでくれているのだと数時間ほど前に直接聞いて、心底、嬉しかったのだが、まさか、こんな細部まで覚えていてくれるとはと、さらに驚かされた。旅の達人の彼女なりの興味と好奇心なのだろうか。
実は、湯布院の宿の御三家の話は、1回目の「Tの湯」、2回目の「Kの井別荘」をアップしたのち、最後の「M量塔」の原稿を書いたまま、アップするタイミングを失って、中断したままになっていたのだった。九州は、その後、大きな震災や、断続する地震、そして毎年、何回もの台風や豪雨の被害に見舞われ、その報道に触れるたびに、とても心配している。そんなことが頭をよぎってアップが遅れたのだと言い訳していた。
湯布院は山の中の小さな町だから、被害も大きかったに違いない。でも、あの湯布院の人たちなら、どんな苦難にあっても、旅人を笑顔で迎え、復旧を続けるのだろう、Y野さんとそんな話をしていた。彼女の質問(実はとても難問)への回答だが、すでにこの原稿に書いてあった。次に行くのはM量塔だと思う。15年以上経つから、古さも出ているだろうが、あの静かなくつろぎ感は変わらないだろう。

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