本の時間「おじいさんと本と旅」
いつもなら朝イチで通う皮膚科へは、この日に限って午後遅くに行くことになった。なんだ、この時間だとガラガラなんだな、と驚いていた。ほんの10m先にある調剤薬局にも人はいないので、高齢の薬剤師のおじいさんとの雑談に花が咲いた。通い始めて何年にもなるので、おじいさんとは仲が良い。高齢だが品があって育ちが良さそうな笑顔の人だ。僕がいつも文庫本を開いて順番待ちしているので、よほどの読書家だと、彼は誤解している(笑)。本と旅は二人の共通項だとわかってから、よく雑談するようになった。
〇〇という俳人(名前は忘れた)の句が書かれた句碑を順に巡って、写真に収め、一遍ずつの感想と記録を書いて、パソコンに保存するのだそうだ。このおじいさんは本気の読書家だ。この前は、ある哲学者の本に感動し、その哲学者の自宅を探し、訪ねて、本の感想を伝え、本にサインをもらった、という話を披露してくれた。僕にはそんなストーカーのようなマネはできない。
ある日のこと、僕が持っていた文庫本は伊坂幸太郎の「マリアビートル」だった。グラスホッパーの続編で、簡単にいえば2作ともに「殺し屋」たちの物語だ。たくさんの殺し屋たちが、新幹線の密室空間で交錯するストーリーが面白い。登場人物の中に、善人づらした最低の悪人がいるので、登場する殺し屋たちが、みんな個性的で愛嬌すらあるように感じてしまう。そんな不思議な、伊坂幸太郎らしい物語ともいえる。特に「蜜柑」と「檸檬」という二人組の殺し屋が面白いのだが、これ以上はネタバレになりそうだ。
O島さん、今日は何を読んでいるの?、おじいさんに尋ねられた。マリアビートルって本です。そう答えると、それはキリスト教の本なの?と質問が続いた。まさか、この真面目な読書家のおじいさんに、殺し屋の物語とは言えないから、新幹線の中のミカンとレモンのお話しです。と言葉を濁して答えることにした(笑)。冷凍ミカンは旅のお楽しみですね。おじいさんが話題を旅のひとコマにしてくれたおかげで、この危機を逃れることができた。
今日の雑談は、春の旅行の話になった。O島さんはどこへ行くの?、いつものようにおじいさんに尋ねられた。僕は尾道に行こうと思ってます、そう答えると、それはいいですね、尾道には林芙美子の碑があるので、ぜひ立ち寄ってください・・・。どうやら、尾道の裏山には「文学のこみち」があって、多くの作家の碑があるようだ。そこに「放浪記」の一節を刻んだ記念碑もあるのだそうだ。おじいさんも「お坊さん」たちと広島へ行く計画があるのだという。
尾道は坂道の街らしい。坂道が苦手な僕は、ロープウエイがあることを知って、それを使って登ろう、と楽な方法を企てている(笑)。尾道では、せめて尾道ラーメンを食べようとも思っている。文学の苦手な僕が歩くのは、きっと「猫の細道」の方だろう(笑)。おじいさんとお坊さんには、どんな関係があるのだろう。お坊さんは尾道ラーメンを食べるのだろうか。でも「お坊さん」との旅には、残念ながら興味がないので、僕は質問をこらえ、雑談をここで終わらせることにした。
また今度、尾道のお話し聞かせてください。おじいさんが笑顔で僕を見送りながら声をかけてくれた。やっぱり林芙美子の碑の写真だけは撮ってきた方がよさそうだな。