遠い記憶「愛のアランフェス」
何年か前のことだ。T橋大輔が「忘れ物」をとりに、全日本選手権に復帰して2位になった。そして世界選手権を辞退したニュースが流れていた。その決断を支持する彼のファンはたくさんいるようだ。とはいえ、フィギアスケートファンの女性たちの中に、多くのシニア世代の女性がいることを、いつも不思議に思っていた。
アクセルとか、ルッツとか違いは分からないし、3回転と4回転にどんな得点差があるのかも知らない。知らない僕にスケートを語ることはできないのだが、そのニュースを聴いたとき、フィギアスケートをきっかけに遠い昔のことを思い出していた。
まだ20代初めで、細くて、長めの髪がサラサラだった僕(笑)は、社員としてアルバイトさんの訓練を担当していた。初めて預かったアルバイトは、高校を卒業したばかりのかわいい3人の女の子(X、Y、Z)だった。けっして下心があった訳ではないので、一生懸命、彼女たちにシゴトを教えていたと思う。背伸びして大人ぶる「X」、たしか陸上選手で、やや早口な「Y」、何かとマイペースで笑顔がかわいい「Z」の3人だ。
中でも、その少女「Y」は、大の漫画好きだった。もちろん僕は少女漫画は読んだことがないから、分からないのだが、彼女が語る少女漫画の世界は、ストーリー展開や緻密な表現手法にまで、ファンを魅了する要素が詰まっているものらしかった。先日まで高校生だったというのに、ずいぶん大人の視点で、人間の心理を語ることに驚いていた。その際の僕の反応の悪さに反発したためだろうか、ある日、彼女(Y)は漫画「愛のアランフェス」の全〇巻を持参し、僕に渡して、読めと言ってきた(笑)。もちろん戸惑ったのだが、彼女の意思を感じて、読むことにした。
巨人の星やあしたのジョー世代の僕にとっては、一種のスポ根マンガの女性版なのかな?、くらいの認識しかなかったと思う。努力型の主人公が、天才型のライバルと対峙しながら、懸命に練習して成長していく・・・みたいな、スポ根の王道のような展開を想像していたのだと思う(笑)。
もはや記憶も薄れて、どんな内容なのかは思い出せないのだが、実際のストーリーはともかく、漫画なのに、主人公の思春期の女性独特の感情の起伏や、複雑に絡み合う人間心理の表現が、男性漫画と全く違うのだと理解した。初めて本気読みした少女漫画に、そんな知らない世界があったということだ。
遠い記憶の中には、ベルバラとか、エースをねらえ、とかを、実際に読んだ記憶があるから、きっと彼女(少女Y)の影響が大きかったのかもしれない。スポーツを舞台にしたマンガは、その後もたくさん続いて、多くの少年少女に影響を与えたのだと思う。きっとテレビの中の、リンクサイドに陣取ってH生結弦君を応援する、あの多くのシニア女性のフィギアファンも、そんな多感な時期を共有したことだろう。
3人の少女の後日談だが、その何年か後のこと、少女だった「X」は大人になり、荒れて酒を乱暴にあおっている姿を片町で見かけた。猫好きの短大生だった少女「Z」の記憶はすでにない。そして、僕に無理やり少女漫画を読ませた少女「Y」は、巡り巡って、僕の大事な友人の奥さんになっている。もうずいぶん会っていないのだが、どこかで会った時は、アクセルとルッツの違いを尋ねてみたい気もする。彼女がフィギアスケートのファンなのかどうかは知らないのだが(笑)。