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2021年02月19日

ただ食べたくて「蕎麦屋で粋に飲みたい」

その晩の、最初の客だったから、かもしれない。小さな暖簾をくぐって中に入ると、そこに作務衣の男性が立っていた。客を迎えるご主人だった。笑顔のない不愛想な男に見える(笑)。若い女性スタッフも2人ほどいるのだが、ご主人が自ら入り口で客を迎え、きちんと挨拶して案内する・・・。こんな店は、いい店の匂いがする。
時刻は17時30分、急な寒気に包まれた街は暗く、静かだった。たしか、あのあたりだったはずだと、暗い柿木畠の小路を歩いていくと、「蕎麦」と書いた小さな行灯(あんどん)が見える。少し暗くてよく読めないが、染め抜きの暖簾に「手打ちそば更科F井」と書いてある。移転したことは知っていたが、こんな場所にあるとは知らなかった。
ずいぶん前のことだ、春だというのに夏日の陽射しが強い日だったと思う。この裏通りを歩いていて、ふと、この暖簾を見つけた。そそる暖簾や佇まいに、僕の嗅覚が反応したのだ。いずれ来ようと決めたのだが、そんな日はなかなかやってこなかった。すでに金沢市民ではない僕たちにとって、物理的にも精神的にも、遠い店だったからだ(笑)。

想像通り、店は狭くて、奥にカウンターがあり、そこが厨房のようだ。迷わずカウンター席を選んだ。手元シゴトを眺めたり、できればご主人の話も聞いてみたい。出されたメニューには、蕎麦の名前が並ぶ。まぁ専門店だから当たり前だ(笑)。右の棚の上に小さな黒板があって、季節の蕎麦が書いてある。こっちはさすがに値段が高めだ。まぁどっちも目移りする。せっかくだから季節のやつを食べてみたい。
う~んとねぇ、蕎麦は後にして、先にお酒を飲んでもいいかい?、と言うと、若い女性スタッフは笑顔で「では、お酒のメニューを持ってきます」と応えた。10種類くらいの地酒や、蕎麦屋らしい焼酎などが並んでいる。焼酎の「そば湯割り」も悪くない。いくつか、つまみの料理を選び、酒は満寿泉の純米をぬる燗で、と頼んだ。珍しく、ビールの「小瓶」で乾杯し、旨い料理を待つことにした。板わさとか海苔とかではなく、ちゃんとした料理の方がいい。ここには揃っていた。

歳をとったら、蕎麦屋で酒を飲む。簡単な「つまみ」でひとしきり飲んだら、最後に旨い蕎麦を手繰って(たぐって)店を出る、というシーンに憧れるのだが、そんな「粋」な時間はなかなかないものだ。人気の蕎麦屋は、どこも「昼の店」ばかりで、仕込んだ蕎麦が切れるころには店を閉める。早ければ14時頃に、暖簾をしまうのもしばしばだ。もちろん夜の予約もないではないが、蕎麦懐石などと言われても、その気になるわけではない(笑)。でも、この店は違っていた。最初に出てきた前菜3品には「白子酢」の皿があった。僕にとっては「今年のお初」というやつだった。出汁巻き、やきとり、かき揚げが、ゆっくり出てくる。どれも旨い。ちなみに蕎麦屋のやきとりには串がない。いってみれば「鶏やき」なのだが、これは絶品だ。
あつあつを頬張っては上を向き、「旨い」と叫ぶ僕に気づいて、ご主人が話しかけてくる。最初は、笑顔もないので不愛想な人だと思っていたが、そうではないらしい。信州そして麻布十番の名店「更科H井」で修業した話や、修行先の親方とのエピソードはどれも楽しかった。きっと彼の「鉄板ネタ」に違いない。夜も楽しめる蕎麦屋にしたかったもので・・・、と語るお主人なのだが、それは修行先の親方へのリスペクトなのだろうと思う。なにせ店名がそっくりだ(笑)。

調子に乗った僕たちは、次の酒へと杯をすすめ、最後の締めに蕎麦を手繰る。とろりと旨い白子天のせいろ蕎麦、たっぷり香箱蟹が入った柚子香るつけ汁の蕎麦のふたつを注文し、そば湯も使って、最後の一滴まで満喫した。もうおなか一杯だ。粋に飲むはずだったのに、旨い料理ばかりで、食べすぎ(飲みすぎ)たな。「粋に飲む」のは、食いしん坊には、まだまだ無理な話だ(笑)。いつか仲間たちと、ここで飲もう、そう決めて店を出た。ご主人が外まで出てきて、キチンと見送る。いまどき古風なオトコだな。また来るから、という僕の返事は、社交辞令ではなく本気の約束だ。

後日談だが、27期の忘年会2020のとき、僕が会場に選んだのは、この蕎麦屋だ。ご主人との約束を守った。とはいえ仲間と一緒に楽しむから、やっぱり「粋な時間」になるわけもなかったけどね。今度また、街歩きのときにでも来ようと思う。次回は昼酒にしてみようか。

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