遠い記憶「とめさん、とくさん、げんさん」
ずいぶん古いハナシを思い出してしまった。いったん思い出すとアチコチへ転がる(笑)。そんなこんなで、今回は「司会者」の話を書いてみたい。
ハナシは飛ぶのだが、A面同窓会の司会と言えば「われらがGさん」のことになる。第1回のときから、司会と言えばいつもGさんだ。もちろん適任者だからなのだが、実は毎回「司会は俺にやらせてほしい」と自分で手を挙げて、承認されてきた。もちろんそれは今回のA面2022も同じだ。
自信があるから、というより、彼は司会という立場(役割)で同窓会と関わっていきたい、貢献したい、と思っているのだと思う。相棒の僕が裏方で貢献したいというのと、ある意味で共通点がある。だから2人とも、30年に渡ってその技を磨いてきたのかもしれない(笑)。
第1回の準備を始めた頃は、いわゆるバブル期で、あちこちで多彩な「パーティ」と呼ばれるイベントがあった。僕たちの同窓会も「他にないもの」にしたいと発起人の3人は意気投合した。主催者の長いスピーチは無し。来賓も無し。だから紋切り型の挨拶は封印。参加者が座って過ごす、そんな「ただの飲み会」は嫌だ。みんながアチコチ歩き回って語り合い、ステージに上がって、笑いあう・・・。そんな原型が出来上がった。だから第1回の集合写真の背後には「懇親パーティ」と書いた看板がかかげられている(笑)。
その当時、いつの間にか「裏方」や「企画」を引き受けた僕が影響を受け、モチーフにしたものがある。それはあるテレビ番組だ。
アメリカ横断ウルトラクイズは日テレの人気番組だった。1980年代にピークを迎えたこの番組は、個人的にも大好きだったし、視聴率も高くて誰もが見ているオバケ番組だったと思う。
国内から海外へと移動するスケールの大きさも特徴だが、単なるクイズ王を決めるのではなく、「知力、体力、時の運」というキャッチフレーズの通り、「運」が勝敗を決するのが痛快だった。後楽園球場を使った大人数の〇✕クイズや、じゃんけんによる敗者復活戦。グアムへの飛行機の機内で行われる100問の筆記クイズ。海岸でやる泥んこ飛び込みクイズ。そして何よりアイデア豊かな罰ゲーム。どれもワクワクした。
当時はバブル景気の真っただ中で、どんな会社でも、メセナや寄付は当たり前だったし、クラブ活動は活発で、社内運動会とか慰安会とかが盛んで、国内はもとより海外旅行も珍しいことではなかった。だから、若い頃の僕は、率先して、会社のイベントのたびに、ウルトラクイズをパクッて、余興として遊んでいた。そんな無茶で無謀で、バカみたいなことに手間をかけるのが許された時代だ。
何度もパクリを繰り返すうちに、泥んこ飛び込みクイズの大道具の作り方も運営も上手になった(笑)。グアム旅行のフライトの際には、本気で機内100問クイズを決行して、客室乗務員に注意されたこともある(笑)。何しろ、消灯間際に50~60人の乗客が、一斉にクイズを始めるのだ。
一緒に謝ってくれた代理店の添乗員には迷惑をかけたのだが、2回目以降は、それも計算づくでやるようになった(笑)。グアムのタモンビーチで飛び込みクイズができたのも、代理店のおかげだ。ホテルとの交渉は大変だったろうと思う。
ニューヨークへ行きたいか~と絶叫するH留アナ(とめさん)や、〇✕クイズの敗者にピコピコハンマーで殴られるT光アナ(とくさん)が好きだった。
第1回の27期の同窓会の席上でマイクを持ったのはGさんと僕の二人なのだが、そのときの「司会者」のモチーフは、実はこの二人のことだった。司会席で冷静な表情でマイクに向かうのではなく、参加者と同じ目線で遊ぶ進行役だ。真面目な式典などの、静かでソツのない上手な司会ではなく、時には絶叫し、時には笑われ、みんなと一体になるスタイルだ。
もう還暦を過ぎて大人しくなってしまったが、期待しているイメージ像は今でも変わらない。だから、僕にとっては、いまのところGさんしか適任者がいない(笑)。
だからもう、A面同窓会の司会者像は、とめさんでもなく、とくさんでもなく、げんさんそのものなのだ。「最近は緊張するようになった」と謙遜するのだが、たぶんウソの演技だ(笑)。さぁ、がんばれGさん。