年寄りたちのバースデーソング
旅に出たときに、食事する場所を選ぶのは僕の担当だ。旅の相棒の家内に、とりあえず「何か食べたいものはある?」と希望を聞くフリをしているのだが、ほぼ僕が食べたいものや行きたい店を決めることになる。家内はそんなやり取りに慣れっこなので、何でもいいよ、などと瞬時に答える。まぁ良く言えば、あうんの呼吸だし、悪く言えば無関心だ(笑)。
僕が行きたい店が人気店なら予約をするし、たまに、行き当たりばったりで自分の嗅覚を頼りにふらりと入ることもある。とはいえ、今回の旅は2年ぶりの東京で、しかもこの晩の食事の名目は「家内の誕生日」なので、ちょっと頑張らねばならない。もちろん要予約だ(笑)。
若い二人なら、ワインを片手に、白いテーブルクロスのファインダイニング、とか考えるのかもしれないが、今の僕たちの場合はもう違う。やきとりでも天ぷらでも構わないから、旨いなぁとか、ここはすごいなぁとか、そんな思い出の方がいい。
イメージでは「日本橋あたりの老舗」がいいかなぁ。あれこれ考えた結果、今回は「しゃぶしゃぶ」にしようと決めた。ひさびさのジャンルだ。予約したのは「人形町〇半」という、すき焼きの老舗中の老舗だ。そこであえて、しゃぶしゃぶを選んだ。まぁ、へそ曲がりだからだ(笑)。
そういえば、去年の僕の誕生会は、近所の8番らーめんだったから、その話をネタにして、今回はこんなに頑張ったよぉ、と皮肉を込めたアピールでもしようか。いや、やめておこう、逆襲されるに決まっている。言い返すネタは家内の方が多く持っている(笑)。
接客係の、このご婦人は和服姿できびきび働く。ご高齢だが会話もスマートで丁寧だ。たまたま話題が互いの年齢のハナシになったとき、笑顔の彼女は、まず左手でパーを胸元に出し、そこに右手のチョキを重ねて、数字の「7」を示した。自分の年齢を教えてくれたのだ。70歳?、いやいや70代ってことだろう、ほかの接客係もみんな同じような年齢だ。口で言わないのは、客がそれに興味を持って会話につながるからだ。もちろん「そんなお歳には見えないよねぇ」と、社交辞令を返した(笑)。
あらっ、今気づきました、ご主人はあの俳優さんでしょう?、と言い出したり、家内の名前を聞いて、名前をネタに、女優さんと呼び始めたりする。いくらなんでも、ヨイショが過ぎる。でもそんな嘘っぱちで場が和み、楽しい時間になっていく。これはこれで、彼女の鉄板ネタに違いない。
伝統ある老舗で気働きする彼女たちは、今日も「この店の顔」として最前線で頑張っている。相手のことを観察しながら客を理解しようと努力する。そして利用客に楽しさを提供し、常連客に愛される存在になっていくのだろう。彼女はそんな典型だと思う。
しゃぶしゃぶは彼女がテーブルで調味し、取り茶碗に入れてくれる。もちろん肉の火入れは完璧だ。この店は湯葉や野菜などの具材も大事にしていて、ベストのタイミングで茶碗に取り、その上にふわりと肉を乗せる。毎回の茶碗の中の野菜や具材が違うのも特徴だ。肉質の違う2種類のコースをバラバラにオーダーしたのだが、見事な手際で「食べ比べ」に仕上げてくれる。それはプロの技だった。
締めの中華麺を食べ終えた頃、席の向こうの方から、バースデーソングが近づいてきた。複数の接客係たち、つまりお年寄りばかりの合唱団だ(笑)。先頭は70うん歳の彼女で、ひときわ大きな声で歌い、デザートを運んできてくれた。誕生日のお祝いメッセージが乗っている。
おそらく、乾杯のときの「誕生日おめでとう」と言った僕たちの小さな会話を聞き漏らさず、用意をしたのだと思う。この店にとっては、このサービスはいつもの光景なのだろうが、お年寄りたちのバースデーソングに囲まれた経験は初めてのことだったので、どう反応していいのか分からず、僕もひたすら大きな声で歌うしかなかった(笑)。
この店 imahan.com