旅館での溜息「秋刀魚ごはんのおかわり」
柔らかい風に乗って、かすかに硫黄の匂いがする。すぐ隣の足湯からなのか、向かいの古総湯からのものなのかは、分からないが、朝一番で、秋の風と温泉の香りを感じることができた。いい朝だ。こんな時間からきちんと和服で気働きする女性たちを見ると、気持ちが良くなる。玄関先に打ち水をする所作に見惚れていたら、おもわず目が合ってしまった。烏(からす)の湯と書かれた源泉に卵を浸している。この温泉玉子は66度の源泉に6時間つけて作るのだと教えてくれた。朝食に出てくる名物の「源泉玉子」は、黄身が、とろとろで柔らかいのが身上なのだが、黄身を箸で切っても流れない。この絶妙の火入れ加減が素晴らしくて、思わず感心する。その秘密がこんなところにあった訳だ。
前日、小雨の午後に山代に着いた、ここは小さい宿だ。玄関も狭く、看板も小さい(笑)。「車寄せ」もないので、和服スタッフをアイコンにして停車した。笑顔で駆け寄るスタッフに鍵を渡すと、車を預かってくれる。和服女性の笑顔のエスコートも、明るい会話もスマートで心地よい。名物女将が出てきて挨拶してくれた、高齢のはずだが、お元気で何よりだ。こんな距離感の小さな旅館がいい。団体旅行を思わせるような広くて大きい温泉宿は、どうしても苦手だ。今年の夏は激動だった。仕事もプライベートもキツイ毎日で、何よりA面本番が終わった時、風船がしぼんだようになっていた。そのせいか、9月になって急に「温泉に行きたい」と思い立ち、あれこれ探して、ようやくこの宿に行きついた。仕事から離れて、とにかく「旨いもん」を食べたくなったのがきっかけだ。この宿の料理が、とても美味しかった記憶があってのことだ。
記憶は半分当たっていて、半分外れていた。当たっていたのは料理のことだ。一見するとクラシックな献立なのだが、とにかくどれも美味しい。鱧も、松茸も、のど黒も素材感を生かした調理が完璧で、茄子や太胡瓜、柿や蓮根などの季節野菜も最高だった。第一印象は地味なのだが、どれもが高価な器の中で、しっかりと存在感を発揮していて、輝いていた。一方、外れていたのは、風呂とサービスだ。どちらの記憶も「NGのはず」だったが、風呂はきれいに改修され、三か所に増えていたし、サービスは、格段に素晴らしくなっていた。地元の宿だが、全国区の名宿なのは間違いない。今日は「当たり」だ。すべて良い方に大外れだった。酒のみの僕が驚いたのは、飲み物の品揃え。日本酒はざっと20種類で地酒党が喜ぶ品揃えだし、ワインはボルドーとブルゴーニュ主体で40種類ほどで目移りする、しかもグラスで楽しめるワインが多くて、感動すら覚えたほどだ。ミシュランの星付きでも、こうはいかない。料理と酒がすすんで、大満足なのだが、最後にでてきた「秋刀魚ごはん」が忘れられない。おなか一杯になってしまい、お替りを断念することになった。でも、あれ、もう一杯おかわりして、行儀悪くお茶漬けにしたかったなあ。
この宿は800年の歴史があり、いまは18代目だそうだ。魯山人が好んで逗留したのは有名で、館内にその書画、器などの作品が、ほんの目の前に陳列されていて驚く。玄関わきには「魯山人が酒に酔った勢いで書き上げた八咫烏(やたがらす)の衝立」が今日も旅人を迎えてくれる。
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