舌の記憶「とんかつのワンダーランド」
もう、30年以上前の話だ。もしかすると20代の頃だったかもしれない。とんかつの名店であり驚異的な繁盛店「目黒とんき」へ行った。とにかく半端ない繁盛ぶりだった。当時は東京へ行くたび、何度も通ったのだが、年齢とともに、とんかつを食べる回数は減り、結果、とんきへも行かなくなってしまった。目黒駅から徒歩で数分のところにあったと思う。昭和の食堂を想起させる古臭い店構えで、店頭に暖簾がかかっている。暖簾には「つかんと」と書いてある。そうだ「とんかつ」を右から左に書いたもので、店年齢が想像される印象だった。暖簾をくぐると「とんきの世界」が始まる。広い店内には、コの字カウンターしかない。カウンターの後ろに、これも、コの字のウエイティングベンチがあって、両方が満タンだ。カウンターと言っても、軽く30人くらい座れるような規模だったと記憶している。カウンターは、塗装されておらず、毎日タワシで磨き上げたように白い。カウンター内の床は、スノコが引いてあるのだが、これも同様に、タワシで磨いたように白い。カウンター奥には、大きなカマドが3基あって、薪でご飯を炊いている。手前には大きな鍋がどーんとあるのだが、左から順番に、粉を打つ人、パン粉つける人、鍋にカツを入れる人、揚がり具合を見極める人(この人が主人だろう)、切って盛り付ける人・・・完全な分業で、大量のとんかつと戦っている。しかし、どれもがリズミカルで無駄な動きがない。だれも一言もしゃべらない、職人技の連続、そんな感じだった。
カウンターの角の「割烹着のおばあちゃん」が、声をかけてくれ、ちょうどウエイティングベンチの真ん中くらいで、待ってくれと言う。うん?、名前は聞かれない。食べ終わった客が立ち上がり、待っていた客と入れ替わる。まだ僕の順番は来ないが、しばらくすると注文を訊かれ、オーダーする。メニューは2種類ほどしかなかったから選ぶのは簡単だ。この光景が淡々と繰り返されるのだが・・・・実は不思議なことが続いているのだ。ようやく僕の順番になり、席を示されて、座ると、ほぼ待つことなく、注文した「ひれかつ定食」が出てくるのだ。不思議はいくつもあるが、どうやら、この「おばあちゃん」は、客の顔と順番を記憶し、席が空くことを予測して、先に注文を取り、そして座ると、ぴたりと、その商品が出てくる。名前も確認しないまま、順番も関係ないように、当たり前にやっている。ある種の神業だ。ここまでくると、不思議と言うのを通り越して、誰かに、この「昭和の怪物」を見てもらいたくなるほどだ。
目黒とんきは、そんな超繁盛店で、昭和の怪物で、とんかつのワンダーランドだった。先日、雑誌で、東京のとんかつ特集を見ていた時、とんきのヒレカツと、よく似た切り方(棒状のヒレカツを縦に切る)の写真を見つけて、当時のことを急に思い出していた。目黒とんき、今でもあるのだろうか。あんな昭和の怪物店は2度とでないだろうな。