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2021年12月28日

掲載予定のなかった原稿

1年に一度だけ、この公式サイトで同級生の訃報に触れる(少しだけ書く)ことにしている。書くとは言っても単なる新聞情報(お悔やみ欄)のような扱いはしたくない。だから編集人として「訃報に触れた僕の思い出話」を書こうと努力している。とはいえ、僕との距離の遠近もあるから、正直なところ書けることが少ない。書けたとしても静かで控えめな内容ばかりだ。ご家族や近い友人たちには、ある意味で申し訳ないと思うのだが、そのあたりはSNSに委ねることにしている。SNSはあくまで個人のものだ。そんな連絡や投稿を、僕も一人の同級生として今まで何度も受け止めてきた。

でも今年の春の「そのとき」は違った。気が付くと必死に原稿を書いていた。大事な仲間をなくして、冷静ではいられなかったのだ。編集人だとか、個人だとかは眼中になかったのかもしれない。みんなにもきっと、大切な友人がいることだろう。僕の場合、そんな友人が逝ってしまうという事実は、なにより衝撃的なことだった。でも、この日のことを原稿に書きながら、だんだん冷静になっていった。結局、その原稿は掲載することはなかった。
一年の最後に、そんな感情の大きな起伏を思い出して、何か月も前に書いた原稿を引っ張り出すことにした。あくまで友人にまつわる「僕と仲間たちの思い出話」だ。よかったら読んでほしいと思えるようになった。長くなるが以下がその原文だ。
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満開の桜と一緒に
前日の夕方、まだ明るい時刻なのに、街は薄い霧に包まれたように見えた。茶色の霧、それは大規模な黄砂だった。気温が高くて天気はいいはずなのに、景色がすべて「疲れた顔」をしているように見えた。思い返せば、嫌な感じの天気だった気もする。一方で、観測史上最速の開花で始まった今年の桜は、今がまさに満開の状態で咲き誇っていた。始めてのSNS参加型のB面企画では、みんなの写真が活発に投稿されるようになった日だ。もう少し陽が差せばいいのになぁ、などと思いながら車窓越しに見える桜を眺めていた。
2021年3月30日、もうすぐ正午になるような時刻だった。運転中の僕は、仲間のMくんからの電話で、彼の訃報を知った。突然のことで混乱してしまい、会話にならないまま通話を終えた。同乗者もいたから、落ち着かなければ、と自分に言い聞かせながら目的地へ向かっていた。
ちょうど犀川の若宮大橋を渡るとき、両側に咲き誇る桜並木があった。こぼれそうな桜を見ながら、そこに彼の笑った顔を重ねていた。満開の桜に迎えられて、彼が天国に旅立ったように思えた。それは僕の知っている彼には、正直なところ似合わない光景にも思う。もっともっと男っぽくて、何しろそんな風流なやつじゃぁない(笑)。でも、この景色は、きっと忘れられないと思う。

運転中で見れなかった仲間7人のグループLINEを開いた。あのあと、Mくんが仲間に知らせてくれたメッセージや、仲間の返信を順に追いかけた。遅れて僕もコメントし、しばらく仲間同士の短いコメントの交換が続いた。コメントが短いのは、上手い表現が見つからないからだ。それはみんな同じだった。
コメントを入力しながら涙していることに気づいた。打つたびに色んな事を思い出して、涙はだんだんひどくなる(笑)。仲間のKくんが上げた大昔の彼のスナップ写真をみたとき、思わず嗚咽した。大切な仲間を失うというのは、こういうことだった。一人で涙していたのは仲間も同じだった。不思議なことに、最初に思い出したのは、ここ数年のことばかりだった。つまり彼が病に倒れてからのことばかりだ。仲間として何もできない、そんな「悔い」みたいなものがあるからかもしれない。
今から3年ほど前だったと思う。僕は紅葉の東京にいた。そのとき、彼が倒れて入院したという一報を聞いた。続報を知るたびに重篤だと分かり始めたのだが、駆けつけることもできなかった。はじめて会えたのは、夜も遅い時刻で、ただ眠るだけの彼の顔を見ることしかできなかった。その後、入退院や転院をはさんで、仲間の7人はそれぞれ何度か会いに行った。病んだ表情の彼が、その時だけニヤ~っと笑顔になるのが楽しみだった。
早く元気になって、仲間のみんなと、また海へドライブへ行こうぜ、と約束した。しかしコロナは、そんなささやかな面会の機会も奪ってしまって、最後に会いに行ってから、もう1年以上になっていた。

ご家族のご厚意に甘えて、自宅に戻った彼の顔を、この日のうちに見に行くことができた。眠ったままのように見える。会いに来たぞ、ようやく会えたな、そんな言葉を掛けていた。不思議と涙は枯れて、笑顔で枕元に立っていた。通夜は明後日、そして翌日本葬らしい。それぞれ事情があるから、仲のよかった仲間たち全員が揃って送れるわけではないのだが、後日みんなで、彼の写真を持って、約束の海へ連れて行こうと思う。ドライブソングは何がいいかなぁ、昔のように聴きながら走ろう。
僕の仲間にはそれぞれ「テーマソング」がある。もちろんそれは僕の個人的なもので、本人に伝えたことはない。昔を思い出して本人が登場するときに、僕の心の中にだけ流れる曲だ。まぁ、プロレスの入場曲みたいなものかな(笑)。彼の場合は、吉田拓郎の「洛陽」だ。ギター1本とラーメン鍋しかない品川荘で、彼が好きだった拓郎の曲を、そしてこの「洛陽」を、二人で歌ったような気もする。薄い壁だったから小声だったに違いない。
そういえば、入院が長引くことを知ったころ、彼にCDアルバムを持っていったことがある。一枚は僕のチョイスで吉田拓郎、もう一枚はご家族の希望で中村雅俊だった。息子さんは彼がギターを弾いてたことも拓郎ファンだったことも知らないようだった。拓郎は、あの時だけの彼のブームだったのかもしれない。まぁ、家族ができたから「サイコロふたつ」をころがす歌詞より、「ふれあい」や「恋人も濡れる街角」の方がいいに決まっている(笑)。  2021/3/31
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掲載予定のない原稿
この原稿は、彼が逝った3月30日に書きはじめ、31日に書き終えた。通夜、本葬を前にして、その日のうちにこの気持ちを書いておきたい、と強く思って書くことにしたものだ。時間とともに薄れるのを嫌って、書こうと思ったのかもしれない。だから中途半端なまま途切れている。
書き終えたときに、す~っと冷静になれたような気もする。考えれば、みんなに読んでもらいたくて書いたわけではなかったし、前例通り、公式サイトに載せるのも止めにした(アップしない原稿、というメモが残っている笑)。
その日、あれこれ考えたが、仲間の総意として公式SNSでの情報発信も控えることにした。前例がなかったこともあるが、単なる友人の訃報ではないから、情報のように扱うことに、何やら抵抗があった。うまく言えないが、大切な仲間を送るのは、僕たちらしく、最後まで特別にしたかったのかもしれない。なんとか笑顔で送ってやりたかった。それは仲間に共通する思いだったと思う。

参列した仲間たちと、手を添えて棺を持つことができた。そんな出棺が終わり、煙に乗って旅立つ1時間くらいのあいだ、待ち合いのロビーにいた僕たちは、仲間のYさんが持ってきてくれた古いアルバムを開いていた。彼の写真を探しては、昔のことを語り合った。不思議なことに、彼の思い出は、なぜか仲間一人一人の中に、違った光景として残っている。残った7人の仲間に共通する思い出も多いが、むしろ知らないことばかりだ。それは、彼の友人スタンスが普通の人とは違っていたからだ。それぞれ時期や期間の長短はあるのだが、一人一人と、とにかく深く深く付き合うやつだった。だから7人の思い出がそれぞれ違うのだ。彼はそんな男だった。
彼の呼び名は「きゃま」とか「おく」、僕は「おっきゃま」と呼ぶ。来年も再来年も、まぁ何年たっても、満開の桜を見ると彼のことを思い出すのだろう。いい日に旅立っていった。そんな、ちょっとずるいところが彼らしい。

後日談だが、この年の8月7日、つまり彼の誕生日に、彼の写真を持って海へ向かった。彼の好物だという「ビーバー」の袋も一緒だ。約束通り、仲間と一緒のドライブだった。

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