toggle
2023年10月13日

舌の記憶「現存する最古?のお好み焼き」

ある夜のこと、ふと「竪町」を歩いてみたくなった。遠い昔の色々な記憶がある街なのだが、もうずいぶん歩いていない。さっきまで柿木畠にいた僕たちは、里見町の裏通りを抜け、竪町通りへ出た。夜とはいえ、そこは僕の知らない町に変貌していた。
そこに「しずる」の看板を見つけた。あぁ、ここでお好み焼きを食べたなぁ、と思い出した。かつて金沢の住人だった僕にとって、お好み焼きといえば片町の「ぼてじゅう」だったと思う。目の前で繰り広げられるプロの職人技が楽しかった。
でも、小さい子ども連れの僕たちには、ぼてじゅうの価格も、あのカウンターも不都合で、しばしば「しずる」を使っていた時期がある。当時は、狭い桟敷席?のテーブルがあった気がする。鉄板で自分たちが焼くスタイルだった。当たり前だが鉄板は熱くなる。子どもたちは、動き回り、時おり鉄板に手をついて火傷する。若い親は驚いて、目の前の「氷が入ったお冷グラス」に、子供の手を突っ込んで、冷やすことになる笑。そんなことを何回もやっていた気がする。

お好み焼きを食べるのは、年に1度くらいになってしまった。旨い、と唸るようなやつは、関西27期のメンバーと行った店の、あの「豚玉」を食べたのが最後かなぁ。あれは絶品だった。
そんなことを考えていて、ふと、かつて浅草で訪ねた有名なお好み焼き店のことを思い出した。そのお好み焼き店は「染太郎」という。浅草では老舗の代表格だった。とはいえ、こっちは美味しい記憶ではない笑。
僕が訪れたのは大昔(30年ほど前)なのだが、調べてみたら、どうやら今でも残っているらしい。そこには古き良き昭和の東京がある。まぁ昭和生まれの僕の勝手なイメージで言えば、昭和感どころか、もっと古い時代の江戸っ子の匂いがするような店だった。
何かの本には「現存する最古の店」と書いてあった気がする。とはいえここでお好み焼きの発祥とかルーツの話をしたいわけではない。大阪の人にも広島の人にも「発祥の地の説」については言いたいことがあると思う。まぁ、この染太郎も、そんな同時代に開業したらしい。唯一の違いは、そのまま今日も現存していること、なのだそうだ。

浅草の雷門から、アーケード(雷門商店街)を歩き、抜けた交差点の近くに、今も染太郎があるはずだ。周囲は3~4階建ての小さなビルが並んでいるのだが、そこに、ポツンと1軒だけ木造建築のこの店が暖簾を下げていた。第一印象は、もう朽ちていて、いかにも倒れそうな店構え、に思えた笑。
それは夏の暑い日だった。玄関先で靴を脱ぎ、板張りの店内に並ぶテーブルに着く。靴はビニール袋に入れてテーブルまで持っていく。接客する従業員は職人姿のおじいちゃんだった。観光地を走る「人力車」のスタッフたちの、あの姿だ。ももひきと前掛けは職人姿の必須アイテムなのだろう笑。テーブルに鉄板があるから、自分で焼くスタイルなのだが、僕たちがオーダーしたメニューは、なぜか全て、その職人じいちゃんが焼いてくれた。だから観ていて楽しかった。
換気が悪くて、壁や柱は脂ぎっていて黒光りだった。店には、クーラーはもとより、扇風機すらなかったはずだ。熱い鉄板を囲んで、汗だくになりながら、うちわを力強く振っていたような気がする。
スタンダードなお好み焼き以外に、変わったやつも注文した。商品名は忘れてしまったが、どうやら、しゅうまい天、あんこ巻き、という名前だったらしい。しゅうまい天は、餅を使った鉄板焼きだ。切り餅を4本、ロの字に並べて、真ん中に具入りの生地を入れて焼く。出来上がりを食べると、なぜか「崎陽軒のシュウマイ」の味に思えてくる笑。
あんこ巻きは、名前の通りで、生地を薄いクレープのように広げ、あんこを置いて、焼きながら、くるくる巻き上げる。まぁデザートみたいな甘い商品だ。味はともかく楽しかった思い出だけが残っている。まぁそんなメニューが今もあるかどうかは分からないけどね。

その後、浅草は何度も訪れたが、染太郎へは行っていない。そんな汗だくの、苦行のような店だったからかもしれない。浅草には、行ってみたい老舗の店がたくさんあるから、このペースだと、なかなか順番が巡ってこない、とも言えるのかな。
いつになるか分からないが、あんな古い店で、遊び心がいっぱいのお好み焼きを食べてみたい気もする。でも、エアコンがしっかりしてないと、同行者の賛同は得られそうにないかな笑。

Other information