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2024年02月16日

遠い記憶「パンチパーマの頃」

大昔の遠~い記憶のハナシだ。当時の僕の通勤路は「裏通り」だった。香林坊から横断歩道を渡り、映画街の入り口あたりを左折して、昔の大和の裏通りを歩く。右手に新天地、左手に銀河会館があった。小路を出た中央通りの向かい側には喫茶ぼたんがあって、勤務先はその右隣だった。会社が経営した居酒屋の店長だった時代だ。
香林坊から片町への大通りは、当時それなりに活気があって、竪町の入り口あたりはいつも人で溢れていた頃だ。それが一本裏通りになると、少し薄暗くて温度が低くなる。明るい表通りではなく、僕はこの陰気で汚れた裏通りが好きだったのだと思う。
通勤路(そんな裏通り)を歩いてると、片町族の雑多な人たちから「テンチョー」と声を掛けられることが多かった笑。当時は深夜(というより早朝)まで営業している店は皆無で、街で働く人たちが(オシゴトの後に)たくさん来店する店だったから、顔見知りになったのだ。どんな世間話をしていたのか、もう思い出せないが、看板を出す店主や、水まきする女将さん、近所で働くフリーターらしき女の子二人組、バンドマンもいたし、いわゆる客引きの男性など、とにかく雑多な顔ぶれだった。

あるときなぜか、1歳くらいの幼い娘を抱いて、この道を歩いたことがある。きっと公休日だったのかもしれない。いつもと違って、その片町族の人たちに囲まれてしまった。みんな娘の顔を覗き込み、ほっぺたを触って、抱っこの順番待ちになっていった。
それから、しばらくのあいだ、僕はいつもの「テンチョー」ではなく、刈り上げテンチョーとか、おカッパテンチョー、と呼ばれた。当時の僕はいわゆる「パンチパーマ」だったから、僕の髪型のことではない。そのときの幼い娘が、おカッパで刈り上げだったからだ笑。
午後から夕方にかけてのこの街は、そんなフツーの人たちがささやかに働く、フツーの街だった。そして陽が落ちるとサラリーマンや学生たちでにぎわい、金沢を代表する夜の街になる。さらに午前零時を境に、街の表情がディープに一変するのだった。
まだ20代の若造の僕が、パンチパーマを選択するのには訳があった。深夜の特殊な業界系の方々や、女性連れで妙に突っ張る系の方々、理不尽な要求を繰り返すアンダーグラウンド系の方々に対して、気後れしなような「おまじない」だったのだ。
実際のところ当時の僕は、パンチパーマに引っ張られて、目つきも悪くなったし、口調も乱暴になっていたかもしれない。いろんなトラブルや事件は日常茶飯事だったのだが、ここで書くことはできない。それほど場違いなエピソードばかりだ笑。

実は、深夜の女性比率は高かった。今と違って、深夜まで遊ぶ若い女性たちではなく、夜の街で働き、その仕事が終わってから食事にやってくる「業界の女性たち」が大半だったからだ。若造の僕からすれば、おおむね彼女たちは、とても強くてたくましく見えた。酔った男たちが見栄やホラで自分を繕うのに対して、彼女たちは、仕事が終わったとたんに、仮面を脱ぐように素顔の自分に戻る。その切り替えは見事だった。
優しい素顔も、激しい素顔もあった。いずれにしてもそんな女性たちは職業へのプロ意識が高かったことは間違いない。今では有名な「大ママ」の中には、そんな人も多くいて、ときどき思い出したりする。だから僕はいまでも女性が主力の夜の店は苦手だ。水割りをつくる手先にも、ビールをそそぐ横顔にも、そのテクニックや仮面を感じて、ちょっと気後れしてしまうのだ笑。

昨年の10月頃だったと思う、この店の創業当時の「アルバイトさんたちの同窓会」が開かれた。実に40年ぶりの再会で、僕や社員だった人にも声が掛かった。当時のあの学生さん達(金大生が多かったかな)は、みんな60代になっていた(まぁ例外なくそんな歳だ)笑。
もちろん今の職業はバラバラで、現役のエンジニアや宮大工に転身した人、飲食店の店主もいたし、独立して立派な社長さん(不動産会社、設備会社、建設会社)になってる人が多くて驚いていた。そんなバラエティーに富んだ顔ぶれだった。様々な思い出話が飛び交うのだが、出てくるのは当時の事件や破天荒なことばかりだ。
参加者たちが、この集いを「同窓会」と呼ぶのは、彼らにとってそこが「学校」のような存在だったから、らしい。人生にとっての大事なことを学んだ時間なのだそうだ笑。当時の僕は彼らの4~5歳年長だったから、さしずめ新米センセーだったのかもしれない。でも覚えているのは彼らと本気で遊んだ記憶ばかりだ。
当時の彼らは、「まかない有り」の募集に惹かれて面接に来ると、パンチパーマの店長や人相も態度も悪い板前さんがいて「ヤバい店だ、失敗かも」と思ったらしい笑。そんなみんなの会話を聞きながら、わずか3~4年のパンチパーマの頃を思い出していた。

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