本の時間「語り部の正体を探しながら」
映画と原作本それぞれの世界
まぁ観なくてもいいかな、そう考えていた映画だった。原作の小説を読んだ僕は、それで十分満足していたからだ。僕にとってはとても異質な小説だったが、実に素晴らしい作品だった。
歌舞伎という知らない世界に生きる様々な人たちの壮絶な人生が描かれていた。波乱に富んだ2人の人生も、関わる周囲の人たちの情念もすごかった。深い心理洞察や独特の文体にも驚かされた。僕にとってはこの年の1番だと思う。

一方映画の方は、公開されると、あれよという間に凄い人気になっていった。もしかすると映画賞の総なめ?、そんな声も気になるようになった。本作のことについては、小説推しの人は少数で、大多数は映画のハナシをしているような感じだ。
だから小説しか読んでない僕は、次々に増えていく映画の称賛コメントに、ちょっとした反発心やアセリみたいな気持ちを持っていたような気もする笑。
で、くやしいから、ようやく重い腰を上げて観に行くことにした。とはいえ、もう1日に1回の上映しかないから、そろそろ終了間際かな、そんな時期だった(まぁ実際には、その後も継続上映が延々と続いている)。
その日の会場にいたのは概ね同性代のおばさまたちだ。たぶん熱烈なリピーターだろうと思った。上映前からみんな興奮気味でちょっとうるさいのだ笑。
小説と映画の違いはもちろんある。しかし、どちらも素晴らしい作品だということは間違いない。両方を知った僕は(前後はともかく)両方を続けて楽しむべきだと思った。二つの作品がそれぞれを補完している気がする。

もちろん僕は歌舞伎を知らない。まったく興味がなかったと言っていい。知っていたのは東銀座の歌舞伎座という建物や、新宿の歌舞伎町くらいだ笑。マスコミに露出する歌舞伎役者さんは分かるが、演目とか芸のことは全くの門外漢に過ぎない。
そんな僕でも、この物語(小説)に引き込まれたのは「語り部」の存在が大きい。登場人物の心情の理解も、演目との不可分な関係も上手に読者をリードしていく。その語り口が独特で、彼らの成長を見守る大きな存在のような不思議なポジションだ。
僕と同じように縁がなかった人が、先にこの映画を観たなら、様々なものを失う人生を経た二人の役者の演技(美しい映像美)を通して、歌舞伎という伝統芸能の意味や価値や深さ大きさに驚くのだと思う。
ちなみに様々な演目があるのだが、死こそが歌舞伎の最大の見せ場と言ってもいいらしい。もっと言うなら、死は、歌舞伎においては、生の究極の姿なのだそうだ。それを演じる「芸」とはやはり崇高なものなのかもしれない。

映画を観終わった僕は、ふと小説のラストシーンを読み返したくなった。(ネタバレしないように書くのは難しいが)喜久雄がず~っと見たかった「景色」のこと、いやもしかすると、それを求め続けた彼のことが気になったのだ。
そこには、やはり語り部が登場して彼を語り、同時に読者にやさしく語りかけるセリフが続いていた。読後の余韻の中に、読者には読者なりの景色が見えたことだろうと思う。
さて、この語り部の正体は・・・・、それを考えるのが余韻ということかな。素直に、とてもいい作品だと思う。









