一杯3,000円の味
自宅から、そう遠くない場所に一軒の郊外型カフェがある。Yトリ珈琲という名前で福井のチェーン店らしい。そういえば福井は昔から郊外の喫茶店が元気な土地柄で、市民はまるでファミレスのノリで食事などに利用するのが日常だった。そんなことが頭をよぎって、珈琲を飲むために来たのに、ついついカツカレーを注文してしまった(笑)。珈琲のほうも、今日は奮発して美味しいストレート珈琲を飲むことにした。食後に、ストレート珈琲を待つあいだ、雑誌のページをめくっていたのだが、ふと思い出した。数か月前に東京で買ってきた「大事な珈琲」を、棚にしまったまま、まだ飲んでいない。そろそろ飲まないと賞味期限が切れてしまうぞ(笑)。
その日、僕は東京にいた。丸の内のKITTEという商業施設の「Sザコーヒー」という珈琲店の入り口で、行列に並びながら入店を待っていた。店頭に「パナマゲイシャ」という写真パネルが置いてある。パナマの芸者ではなく、パナマで栽培・収穫されたゲイシャ種というコーヒー豆の品種のことだ。
茨城に本店を持つSザコーヒーを知ったのは、つい先日のテレビ番組だった。茨城では有名なコーヒー店らしく、茨城県民が自慢する珈琲専門店だった。どんないきさつだったか忘れたのだが、ゲイシャ種という芸術品のようなコーヒー品種に魅せられ、ついには南米で農園を取得し、栽培するほど惚れ込んだ様子が放映されていた。コーヒーの本当の魅力を広めたくて、丸の内の一等地にこの店を開いたのだろう。とにかくバカ丁寧なほどに、来店客一人一人に、熱心に丁寧に、扱うコーヒーの説明を繰り返す店だった。どうやら行列に並んでいるのは、全て熱烈なコーヒーファンばかりのようだった。
ウエイティングの時も、カウンターでのオーダーの時も、そんな熱心な説明が続く。事前に予習したこともあって、そんな説明を受けるうちに、僕はすっかりゲイシャのファンになり、お薦めのコーヒーを選んでいた。オーダーしたのは1杯3,000円のコーヒー(その名もベストオブ・パナマNo9)だった。テレビを観ていて知っている。3,000円でも利益は出ないはずだ。
さらに陳列されているパック売りのコーヒー豆も、家人へのお土産に買ってしまった。なんと50g入りで1,800円のコーヒーだった。こんな小さなサイズのパックを見たのは初めてだ。釣銭をもらうときになって、とんでもない買い物をしたと後悔していた(笑)。
店内には2か所のカウンター席しかない。サイフォンが並ぶキッチン側のカウンター席(8席くらい)と、僕が案内された壁側のカウンター席(6席ほど)だ。カウンターの客は、みんな静かで黙ったままだ。まるで座禅を組んでいるような雰囲気に近い(笑)。僕も壁を静かに眺めてコーヒーを待っていた。
待つこと15分ほどで、トレイに乗った珈琲が提供された。注文したパナマNo9のカップ一式と、横に小型のデミカップが乗っている。デミカップの中は、この店で売っている特選ブレンド?、つまり定番のレギュラーコーヒーで、本命の3,000円のゲイシャ珈琲との飲み比べを楽しむスタイルだった。
スタッフがここでも丁寧にトークする。サイフォンで抽出したので温度が高いとか、少しすると温度が下がるので、その時に果実の香りが際立つとか、添えてある特選ブレンドと比較すると違いがよくわかるとか、さらに時間が経って温度が下がると、オレンジの果実のような香り楽しめるとか・・・。そんな長い長い提供トークだ(笑)。せっかちな僕だが、ここまで言われると、がっつくのを我慢して、さらに無言でゆっくり飲むしかなくなる(笑)。
比較のために、先に定番の特選ブレンドを飲んだ。旨い。日頃飲んでいる我が家のコーヒーを基準にすれば、はるかに旨い。でもこれが、Sザコーヒーではフツーの味ということだ。そして、じっくり待って、本命のゲイシャ珈琲を口に含んだ。たしかにコーヒーなのだが、いままで飲んだものと明らかに違う。珈琲ではなく別の植物?別の果物?の感じに近いのかもしれない。さらに時間をおいて、オレンジの味を探して飲んでみた。うーん、たしかに柑橘系の香りが広がる。すごいなぁ。
あの日に買ってきた、わずか50gのコーヒーは、大事にしすぎて放置されていた。誰か訪ねてきたら出そうか、いや、そんなもったいないマネはできないな。ここぞ、というときに、一人でゆっくり味わおう。そう思ったまま、忘れてしまっていた(笑)。思い出した僕は、週末にやってきた弟に飲ませることにした。すでに賞味期限は切れているのだが、弟には内緒だ。その珈琲は、賞味期限と関係なく、やはり旨かった。そして、あの日のスタッフたちの熱心な横顔を思い出した。
Sザコーヒー saza.co.jp