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2019年11月01日

本の時間「ラストバンカー」

街の中小企業が、某地方銀行の頭取に会うのは、正月のご挨拶の「儀式」の時だけだった。とはいっても、会場のひな壇に立っている頭取にたどり着くまで列に並んで、ようやく前に来て、名刺を渡すだけだ(笑)。会話などない。漫画のシーンのようだが実話だ。今から思うと、悲して、滑稽な絵に思える。だから翌年からは止めにした。
一方で、住友銀行のN川頭取と会ったのは、銀行主催の〇〇周年パーティーの時だった。頭取が各テーブルを順に回りながら、取引先である参加者と名刺交換し、笑顔で談笑していく。僕はまだ40歳頃だから結構、緊張の面持ちで自己紹介したと思う。58歳という異例の年齢で就任した、この伝説の頭取は、写真とは別人のような優しい表情で、金沢から来た若い僕に話しかけてくれた。後の金融業界の大混乱や、政治に翻弄されながら戦い抜く伝説の人物となるとは、夢にも思わなかった頃だ。
もうすぐ令和を迎えるころ、日経新聞「私の履歴書」の主人公に、三井住友FG名誉顧問のO氏が登場した。連載の終盤、不良債権処理やメガバンク誕生の裏側で奮闘する主人公の彼の上司として、N川義文氏が登場していた。その後、退任するN川頭取から次の頭取にと、主人公が内示を受けるシーンも語られていた。毎朝読むシリーズに、そのN川氏が登場したから、そんな遠い昔の、何でもないパーティーの、些細なシーンを思い出していた。

作家・池井戸潤の「半沢直樹」シリーズは、バブル後の合併やメガバンク誕生の頃の大手銀行を舞台にしていて、痛快なストーリーが人気だ。元銀行員というからリアリティーもあって面白い。また、作家・真山仁による「ハゲタカ」シリーズは、投資ファンドを舞台にした一種の経済小説で、バブル崩壊後の金融業界の混乱期を描いたもので、読みごたえがあった。
どちらも、原作のヒットを背景に、後にテレビや映画としてブームの火付け役のようになっていった。だから今でもテレビ局の改編では、この手の銀行モノがたくさん製作されている。小説の中では敵として描かれる銀行(メガバンク)の支店長や融資担当は、どこか薄っぺらそうに描かれている。小説だから仕方ないが、本物のエリート・バンカーたちは仕事の切れがいいサムライばかりだった。

ある日、本屋の文庫本の売り場で、本の表紙を飾るN川氏の写真を見つけた。本のタイトルは「ザ・ラストバンカー」N川義文回顧録だった。迷わず買って、その日のうちに一気に読んだ。小説ではなく、現場で起こった、現実の話ばかりなのだが、読者をひきつける強い力を感じた。小説にあるような、キャラクターの解説も、息抜きのシーンも、全くない。生々しい事実だけが、淡々と語られていた。何より、大逆転もハッピーエンドも存在しない。読み物としては、読後感は決して良くない。
混迷の時代、平成が終わった。この時代と戦ったN川さんのことを思い出すのは、彼の生き方の矜持に、とても惹かれるからだろう。この原稿を書くために本棚から探して、文庫本の帯を読み返した。A宅産業処理、H和相銀〇トマン事件、師である巨人の追放、大合併、と破綻処理や再生と戦い続けた本物のバンカーの記録だ。

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