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2021年02月05日

旅館での溜息「プロローグが大事」

旅のスタイルは人それぞれだ。何日も前から必死に調べて綿密な計画をたてることもあれば、宿だけとって、ただのんびりすることだってある。自分にとっての「絶景」を目的とする場合もあれば、とある店の「料理」を食べたくて、その街を訪れることもある。今回の旅の目的は「宿」だった。そこでの滞在に魅力を感じている。よい宿の定義は難しいが、滞在の前味、中味、後味がすべて上手だと思う。普通なら中味(建物とか食事とかサービスとか)を書くのだろうが、今回は、この宿の「前味」つまり、滞在のプロローグのお話をしようと思う。
この宿には、4年ぶりに戻ってきた。はじめて訪れた時から、敷地の森の中で、ゆっくり季節の移ろいを感じる、そんな自然との一体感が気に入って、何度か訪れるようになった。人生の節目だ、などと無理やり理由をつけて、時折ここで、リセットやリフレッシュをしてきた。
ずいぶん昔のことだが、初めての予約の時、2泊からしか予約できないことを知り、驚いたものだ。当時、宿のスタッフたちはみんな本当に若い人ばかりで、最初の頃は未熟で不出来なことが、たくさんあった(まぁ、いまでも時々あるけどW)。年配スタッフはいない。スタッフはみんな息子や娘の年齢だ。イライラしたり、見ていてハラハラしたこともある。だが、その一生懸命な姿に感心し、自然にファンになっていった。今では旅の目的そのものが、この宿での滞在になっている。

その宿は中軽井沢にある。タクシーなら軽井沢駅から10分ほどの距離だ。シーズン中は大渋滞するこの道路も、さすがにこんな日は空いている。走るタクシーのちょうど真正面に浅間山が見えてくると、そろそろ中軽井沢だ。今日は良く晴れていて、真冬の空気が澄んでいるからだろう、浅間山がきれいだ。噴煙が小さな雲になって山頂を隠す帽子のように見える。
小さな橋を渡ったタクシーが、宿の敷地の森の中の長い小路を進むと、レセプションに着く。レセプションは森の中に、ぽつんと建つ単独の建物だ。巨漢の名物スタッフの笑顔に迎えられ、タクシーを降りる。今日は保護しているニホンザルの群れの話題を添えてくれた。建物に入るとゆったりとした空間だ。そして独特の打楽器の静かな生演奏が迎えてくれる。ドリンクが出てきて、僕の名前で声をかけてくる。まるで覚えていてくれたように錯覚する。この宿は滞在中、全ての従業員から名前で呼ばれる。

レセプションでひと息つくと、小型の専用車(ニッサンキューブ笑)が横付けされる。僕の荷物と一緒に、宿泊するヴィラ(コテージより、少し充実した施設かな)まで送るためだ。その道すがら、敷地内を車でゆっくり案内してくれる。敷地面積は1万3000坪というから、ヴィラまでは軽いドライブのような感じだ。再び橋を渡り、正門に入る。ここから先はプライベート空間だから宿泊客しか入れない。レセプション、そして、この橋は世間と縁を切る「結界」のようなものだ。
ハンドルを握るのは若い女性スタッフだが、実は、事前に僕たちの過去の利用履歴を頭に叩き込んでいて、会話の端々に過去の情報を上手に挟んでくる(笑)。利用客の方から自然にしゃべったように、上手に情報を使う。たとえば以前の利用の際の話題を持ち出してきて(実は僕の誕生日が今月だったことを知っていて)この滞在中に、誕生日のお祝いをしてくれるのだという。
いつだったか、ここの密着取材の番組を観たことがある。若いスタッフたちはチームを組んで、やってくる顧客のための準備やもてなしを真剣に話し合うようだ。ひと組ごとに顧客の情報を駆使して計画を練り、個別に対応や提案をするためだ。僕の利用履歴のデータベースも充実しているようで(笑)、もしかすると、この宿の利用履歴だけでなく、系列のホテル全ての履歴メモが取り出せるのかもしれない(笑)。まあ実際には無理だろうが、家族構成から、宿着のサイズ、飲み物の好み、外のテラスに頼んだ灰皿の個数まで記録されているニュアンスだ。お見事というしかない。どうかデータ流出事件だけは勘弁してほしいものだ(笑)。滞在するあいだに利用できるイベントやプランのガイダンスがあるのだが、どれも僕たちに向いていて、魅力的な企画ばかりだ。今でも若いスタッフたちが、一生懸命知恵を絞った企画なのは間違いない。

16時から始まるウエルカムスイーツに惹かれて、フロント棟の前庭へと、ゆっくり散策しながら向かった。寒いのだが、冬の空気は澄んでいて、とても気持ちいい。前庭と書いたが、周囲に川や低い滝が流れる水辺の一角に緑のスペースがあって、そこにイスとテーブルが設置されている。そして横には小型のキッチンカーが停まっている。単純にいえば、真冬なのに、屋外の臨時カフェなのだ。寒いに決まっている。でも、この宿の場合は「冬だから」あえて屋外のカフェなのだろうと思う。そんな宿だ。
渡されるブランケットを膝に掛け、飲み物を注文すると、テーブルに小さな炭のコンロがセットされる。出てきたのは、なんとミカンだ。どうやら、ウエルカムスイーツの正体は、屋外で作る「焼きミカン」らしい。上手に焼いたミカンは甘くて美味しい。そういえば子供の頃、火鉢でそんな遊びをしていたような気になっていった。熱々のミルクティーが、すぐにぬるくなるほどの気温なのだが、なぜか心が温ったかく緩む感じだ。
宿のチェックインは、旅の前味=滞在のプロローグだ。そして宿の第一印象が決まる大事な儀式でもある。今回も楽しい滞在にしよう。

Hのや軽井沢 hoshinoya.com/karuizawa

(後日談)この原稿は、以前に軽井沢大会の関連情報として書いて、いったんお蔵入りしたものだ。書いているとき、YouTubeで、ここの「コンセプトムービー」を見つけた。たまたま同じ真冬の撮影だったようだ。2014年のものらしいから少し古いのだが、せっかくだから一緒に紹介しておきたい。

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