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2020年12月29日

2020年の終わりに

ちょっと迷ったが、この原稿を臨時掲載しようと思う。予定にはなかったのだが、これがちょうど今年100編目の編集後記になる。とはいえ、いつもの能天気な編集後記ではない。内容は重いし、ものすごい長文になったから、読んでほしいなどとは言えない(笑)。でも、2020年の終わりに、再び「同窓会とホームページ」のことを書いておきたい。

数えてみたら、僕が編集人になって丸4年が過ぎたようだ。もう4年になるのか、という人もいるだろうが、記事を書いている本人にとっては「えっ、まだ4年しか経ってないの」という感じがする。
いつものことだが「年末の総集編」を書き終わると、どっと疲れる(笑)。原稿内容が大変なのではない。書きながら「反省」してしまうからだ。反省が始まると、手が停まり、時には何日もかかったりする。反省は主に僕たち常任幹事のことだ。しかも振り返るのは、この一年のことにすればいいものを、そういえば・・・、などと、始めの頃までさかのぼってしまうから、B面やホームページのことで言えば、4年分の反省になってしまう(笑)。1年1年が、とても重い。
そんな僕と、相棒のGさんは今も、毎月1回の打ち合わせを続けている。毎月やることがあるのか?などと思われるだろうが、二人にとっては大事な話し合いだ。なぜなら、迷ったときに戻る場所みたいな時間だからだ。さて、そんな常任幹事の二人にとって、週イチで更新する公式ホームページは、僕たちが考える「ある種の同窓会」だと位置づけている。

GさんはA面同窓会の生き字引だと思う、これは間違いない。いつも笑顔で輪の中心にいる。もちろんA面については皆勤賞だ(笑)。一方、片割れの僕は、かつて、A面当日を何度か欠席しているし、実行委員会の方はA面2回に1回くらい、つまり8年に一度の参画サイクルだった。まぁA面の劣等生だったのかもしれない(笑)。とはいえ、参加しないときは、遠くから俯瞰的、客観的に見ていたものだ。そして、Gさんと同じなのは、第一回が終わってからも、出席欠席にかかわらず、ず~っと同窓会のことを考えていた。それは今でも変わらない。発起人という無言のプレッシャーに、今でも立ち向かっている。
そもそも僕は優等生ではないし、団体行動は特に苦手だ。わが校の生徒だからと、ルールや正論を押しつけられると、無性に反発した。だから体育館に集まるような行事や、文化祭や運動会、スポーツ応援などは、欠席する理由ばかり探すような生徒だった。実際、よく休んだ(笑)。
そんな僕が、熱心に参加した例外のような記憶もある。その記憶は、種類は少ないが、仲間や先輩後輩たちとの濃密な時間で、それは今でも鮮明に思い出せる。真剣だったり、手間がかかったり、本気の喜びと悔しさがあったからだ。出席するのが当たり前とか、みんな参加してるからとか、卒業生だから、などと言われると反発するのは、還暦を過ぎた今でも変わらない(笑)。だから、僕の企画は、いつもどこかに、そんな「普通への反発」みたいな態度が透けて見える。

世の中の人たちが言う「同窓会」とは、一般的には「会合」のようなカタチで、同窓生が集まり、話をしながら「酒を飲む場」なのが普通だと思う。それがステレオタイプだ。いまだに団体行動が苦手な僕には、やや抵抗のある会合でもある。同窓会に出席する人からすれば、同窓会に出るのが当たり前で、普通のことだから、会場に来ない人(会場にいない人)のことを、「来れない人」と、まとめて呼ぶ。
来れない人には、来れない事情があるから、日程を変えようとか、会費を安くすれば来れるはずだ、と思うことになる。それはそれで間違ってはいない、そんなケースもあるだろう。でも、僕の経験で言えば「会場にいない人」の、およそ半数以上は、来れないのではなく「行かない」のだ。しかも、行かないことに、明快な「理由がない」ケースがとても多い。
直感であったり、負の感情だったり、無関心や何らかの抵抗感や、否定する気持ちがあるのだ。意思が先で理由は後だ。だから欠席の理由を聞かれても、用事があって・・・、などと表面上の回答になる。まぁ僕がそうだった、などと自分の話をしたいわけではない。本来の僕にとっては「会場にいない人」の方が、身近に感じるだけのことだ。

ホームページの初めの頃の記事に、100+100+100=300、という記事を書いたことがある。300人の同窓生の名簿に招待状を送って返信を待つ。100人が参加で回答し、100人が欠席を伝え、100人の返信はない。言い方を変えれば、参加する100人、つまり「会場にいる人」の方が少数派で、「会場にいない人」の方が圧倒的な多数派なのだ。だからこそ、会場に来てくれた(少数派の)仲間には、心から感謝する。来てくれてありがとう。僕には簡単ではないから強くリスペクトする。
はるか遠方から多額の交通費と時間を使ってやってくる仲間も多い。もう実家もなくなっていて、わざわざホテルに泊まる仲間もいる。そんな仲間たちの「当日の価値」は、どうあればいいのか、そんな葛藤が、企画や行動力のエネルギーかもしれない。参加してよかったと、みんなの喜ぶ顔が、充実感の糧であり、反省の指針だ。だからいつも会場入り口にいて、遅れてくる仲間を最初に迎えたり、歓談のなかに一人でいるような仲間には敏感になって、会場の隅から眺めて、声を掛けようとウロウロしていたりする(笑)。

一方で、いつまでたっても回答が出ないのが、会場にいない「200人」のことだ。200人に個別の人生と毎日がある。参加することが常識ではないはずだ。今いないだけの200人の仲間だ。そんな仲間たちとの唯一の共通項は「ある期間」に「同じ時間」を共有したことしかない。だから、ホームページの読者のイメージは、会場や行事の参加者だけでなく、むしろ「会場にいない同級生」たち200人にしようと考えるようになった。公式ホームページを「ある種の同窓会」にしよう、というのは、このことだ。
だから、A面やB面の記事には、企画や募集、終わった後の報告などの一般的な内容だけではなく、参加した「仲間たち」の横顔や、失敗やハプニングを伝えようと無理している(笑)。さらに「編集後記」と題した雑記では、「とある一人の同級生」の思い出や今の些細な毎日を書くことで、読者の中にある「同じような記憶」や共感、さらには「反感やツッコミ」すら期待しているところがある。

ホームページには人格が必要だと思っている。人柄とか人となりのことだが、「A面ニュース」は真面目な優等生のような感じだ。「B面ニュース」や「食う見る遊ぶ」は、イベントや軽いサークル活動のノリだ。そのリーダー達は、優等生っぽくはないが、結構、真面目にやっている(笑)。一方「編集後記」だけは、編集人つまり、生(き)のままの「僕」のことだ。「いい話」は自慢話に思えたり、「悪い話」はウソっぽく見えるのだろうが、書いているのは全て事実でホントの体験ばかりだ。300人余の同級生の中の一人に、こんな「少し変わった奴」がいる。ただそれだけの内容だ。そして、そんな奴は沢山いるはずだ。だから、どこかに共通点がある。本気でそう思っている。

僕の役割はGさんと違っていて、新しいことをやるときに際立つ、と思っている。際立つのは「毒」があるからだと思う。新しいことは、無茶で無謀で、賛同と反発の両方が付いて回る。疑問も誤解も多発する。でも信念を曲げないし、意思をオブラートに包むようなまねはできない。だからいつも角が立つ(笑)。4年前の還暦企画の時に、何年振りかで300人にストレートな手紙を書いた。同級生の誰かが考えた無茶な企画で、しかも、来なくても構わない、という内容だ。まぁアンチ・ステレオタイプだと思う。これがB面の基調で、それは中止した軽井沢大会も同じだ。
また遊んでる、暇があっていいなあ、自分は興味がない、行かないとは思うけど・・・。写真のあいつは元気そうだ、あそこへは行ったことがある、このアイデアだけは面白い・・・。何でも構わないので、同じ年齢の仲間のやることにツッコミを入れて、笑って、そして少しだけ興味を持ってほしい。

決して多くはないが、年に何度か「会場にいない人」から便りをもらう。中には毎年正月だけメールをくれる仲間もいる。とても嬉しい。彼からの今年のメールの話題は編集後記に書いた一冊の「本」のことだった。彼もその本を読んだらしい。その本を手にするのは彼も僕も同じだが、互いに全く違う人生がある。本から感じたり思い出したりするシーンは、全く別の世界だった。読んでいて嬉しかった。年に一度のそんなメールに心が揺さぶられる。
彼らのように、会場にはいなくても、一人一人の中に同じ時間≒同窓会がある。そんな実感を持ってもらいたくて、今日も原稿に立ち向かう。もちろん正解はないから、これは僕のライフワークのようなものだと思うようにしている。まぁ、毒があったり鼻につく話も「とある仲間」の週刊実話だ、ぜひ笑って流してほしい。
そして今日も、64歳の指でキーボードに向かっている。指にはずいぶんシワが増えたな。でもこれは皆んな同じだ。来年は、いい年になりますように。

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