ただ食べたくて「小さな幸せを感じる」
自宅に近いところに「ひいきの店」を持ちたいものだ。人様に紹介できるような、そんな店があるのは、楽しくてカッコいいと思う。娘たちが順に巣立ち、二人暮らしになった頃から、そんなことを考え始めた。もう二人暮らしは20年になる。だから今も、そんな店を開拓しようと、ささやかな努力を続けているフシがある。しかし、行ける回数も限られていて成果は少ない。そもそも近所に店は多くない。
寿司屋は概ね満足しているが、うなぎや天ぷらは行ったことがない。イタリアンはいいやつと出会った。でもフレンチは今ひとつかな。うどんも街中華も洋食屋も、あるにはあるが紹介したいほどじゃない。あるとき面白い喫茶店を見つけたのだが、肝心の珈琲が美味しくない(笑)。特に居酒屋や割烹は、長年探しているが、どれも2度目はない、そんな状況がいまも続いている。
ある日のこと、悪友の某から、近くに蕎麦屋ができたことを教えてもらった。店名は「こゆき」というらしい。僕は勝手に「女優の小雪」をイメージした。悪友の彼が好きそうな感じかな?、美人の女将がいたりして、と、さっそく出かけてみることにした。
できたばかり?の小さな店だった。内装も洒落ていて、飾り物やテーブルの小物なんかには女性的なセンスがあって、頑張っている感じだった。しかし、蕎麦屋だというのに、天ぷらそばがない。好きな鴨もない。出し巻きがないのは仕方ないが、天ぷらがないのは、どうなんだろう。そんな第一印象だった。
それで、何があるのかというと「にしん蕎麦」だ。お品書きをしっかり読むと、どうやら、これがイチオシの商品のように見えた。さっそく食べてみることにした。おっと、蕎麦は十割で香り豊かな本物だ。旨い。せいろに添えられた「にしん」もていねいに作られていて美味しい。接客するのは女性ばかりだが、素人のパートさんのようで、ぎこちない。もちろん小雪に似た美人女将は出てこない。まあ、それはそれで問題ではない。みんな一生懸命やっている。店名が店名だから、おっさんが出てくるよりは、はるかにいい(笑)。
満足して店を出るときに、看板を見なおした。「こゆき」は、正しくは「小幸」と書くらしい。小さな幸せ、店名に、そんな思いを込めたのかもしれないな。僕は、そんな物語に弱い。
それから、しばらくして、2度目の「にしん」を食べた。蕎麦は「辛味大根のおろし」と、あったかい「卵とじそば」も食べてみた。店の隅には「薪ストーブ」があって、優しい炎が見える。テーブルの小さな一輪挿しの花が、春の訪れがもうすぐそこだ、と告げているような気がした。いい感じだった。
その後も何度か訪れるようになった。店の前の植え込みや鉢植えの山野草が季節を伝え、いつも素朴な姿で優しく迎えてくれる。訪れる回数は重ねたが、ひいきの店といわけでもない。まぁそんな世俗的な言葉は似合わない店なのだ。行くたびにダメもとで、メニューの文面に天ぷらを探してみたりする(笑)。世俗の欲に染まった僕は、天ぷらが加わることを、ひそかに祈っている。あぁ、できれば出し巻きもね。
この店 osobayakoyuki.com