遠い記憶「木曾節で始まる毎日」
それは、SNS企画の「夏うた」のときに、ふと思い出したことだった。でも、話題にできるような楽しい思い出ではなく、ちょっとマイナーで、内緒にしておきたい話でもある。まぁ僕にとっては特殊な時期のハナシだし、昭和のフツーの若者たちとは少々違った「歌の記憶」だった。
思い出に残る歌といえば、たぶん学生時代までのそれだと思う。おそらくみんなと同じだ。自分が好きな歌だけを選んで聴けるからだ。それが、社会へ出ると、少し違うことになる。
誰もが同じだろうが、社会人になると、つまらない大人を演じるようになる。上司や先輩に「付き合え」と誘われて、夜のスナックで水割りを飲み、彼らのカラオケを聞かされた。当時は概ね演歌だった。たしかに先輩は歌が上手で、彼の石川さゆりは最強だった。僕は、スナックのような「女性がいる店」も、カラオケも演歌も苦手だったから、静かなBARで旨いスコッチやバーボンを一人で飲むような遊びを覚えたのだと思う。
ちなみに、特殊な職場で働いていたから、僕は「民謡」が歌えた(笑)。昭和50年代の中ごろ、毎日毎日の職場に流れるBGMが民謡だったからだ。当時、金沢明子という民謡界のスターがいて、そのLPを嫌というほど聞いていたと思う。だから耳が覚えたのだ。もちろん自ら歌うことはない。そんな僕には「ディスコの時代」がない。まぁゼロではないのだが遊んだ記憶がないのだ。同級生たちがおしゃれをしてディスコに通う頃、僕は民謡と一緒にいたからだ。だから、つのだひろのメリージェーンや、チークタイムは、ほぼ想像上のものでしかない。
その店のBGMが民謡だったのには理由がある。今の表現で言えば、事業の「プロデューサー」の指示だったからだ。コンセプトの「日本の原風景」には民謡が欠かせないらしい。その人は、僕より20歳ほど年長だった。いわゆる強面(こわもて)で身長は180㎝以上あった。長い手足で、パリッと着こなすスリーピースはカッコよかった。自他ともに認める石原裕次郎のファンで、話し方も所作も本物に似ていた(笑)。
札幌の「すすきの」や、新宿の歌舞伎町、ミナミの宗右衛門町で、トレンチコートをカッコよく決める彼の後ろを追いかけるように、夜の繁華街に連れ出された。馴染みのスナックに連れていかれるのだが、無口で会話もなく、濃い水割りを、まるでビールの速度でクイクイ飲む人だった。どの店も、ママは札幌出身の美人ばかりで、すすきのでの若い頃の彼の武勇伝を聴かせてくれた。北海道の人は、サントリーじゃなくニッカウヰスキーを飲むのだと教わった。裕次郎ファンなのに、ブランデーもシャンパンも嫌いらしい。
スナックの後に連れていかれるのは、いつも「民謡酒場」だった。昭和とはいえ、そんな店はなかなかない。もちろん僕は知らなかったから初めてのときは驚いた。居酒屋なのだが、ステージがあって、いわゆるライブをやっている。まぁ仕組みはライブハウスに似ている(笑)。
彼からの指示で、金沢の民謡酒場の存在を調べたことがある。見つけた店は犀川大橋を渡った左手にあって、いつも中年の常連客であふれる店だった。ステージがない時は、リクエストができて、そのレコードが流れる。民謡は日本人の魂を揺さぶるんだ、ぼそりと教える彼の言葉には重みがあった。
何ごとも没頭するたち(性格)の僕は、必死になって民謡を勉強した。民謡界の百恵ちゃん・金沢明子を知ったのもこのときだが、同時に津軽三味線にも出会った。名人・高橋竹山の独奏には静けさの中に嘆きや怒りが聴こえるような激しさがあった。厳しい冬の青森や土地に暮らす者の喜怒哀楽が透けて見えるような気がした。若いなりに、魂を揺さぶるという意味を実感したのかもしれない。
当時のこの店のBGMは、夕方の静かな開店のときに金沢明子の木曽節をかけた。彼女の伸びのある歌声はたしかに美しかった。だから僕の一日はいつも木曽節で始まったのだ。そしてピークタイムには高橋竹山を流していた。深夜になればお決まりの「有線チャンネル」で演歌を流す。まぁそんな時代だったのだ。
ときおりプロデューサーの彼が視察にやってくるので、石原裕次郎をかけたことがある。彼はぼそりと「俺におべっかはいらない」と怒った。でも目元に笑みがあったような気がする(笑)。