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2022年09月10日

旅館でのため息「霧の中に浮かぶアートな宿」

箱根の仙石原(せんごくはら)、と聞いて思い浮かぶのは、ススキが一面に広がる草原と、高い空を悠然と舞う「いぬわし」のことだ。仙石原のススキは有名だが、いぬわしのイメージは、ある小説を読んだときに想像した光景で、現実のものではない。
ゴールデンイーグル(いぬわし)という異名を持つ投資ファンドの主人公が暗躍する経済小説シリーズがある。まぁ多彩な登場人物が織り成す人気の群像劇でもある。そのスピンオフ作品に登場する女性が、仙石原に時おりやってきて野生の「いぬわし」を探すのだ。
まぁ、僕の勝手な想像では、すごい美人で、仕事ができて、でも孤独だ。そんな彼女が、一見すると「悪の象徴」のようなファンドマネージャー(本編の主人公)に、ひそかに好意を抱いている設定かな(笑)。よくできた小説なので今でも覚えている。

そろそろ今夜の宿に向かおうか、と、のんびり強羅(ごうら)駅に戻ってきたら、人が誰もいない(笑)。それなりににぎわっていたのに、16時になると店も閉まってしまうようだし、タクシーもいない。何とかタクシー会社に電話して乗車できたのは30分も後のハナシだ。
今回の旅の目的は「二つの宿」だった。ひとつは20年以上前から行きたかった強羅の名旅館だ。運よく予約が取れたので、2泊3日の旅にして、もう一泊を追加した。それが初日の今夜の宿だった。明日(二日目)の宿は箱根の名誉会長みたいな有名宿だから、どうせなら初日の宿は全く逆の、つまり新参の「旬の宿」にしようと選んだ。今風の最新の温泉旅館だ。20室ほどの規模で全室に露天風呂がついた「おこもりの宿」でもある。どうやらコンセプトは「アートな温泉宿」らしい。
このアートな宿は仙石原にあった。箱根にはたくさんの美術館があるのだが、その半数以上が仙石原に密集している。だから今回の旅のあいだに、できればいくつか回ろうと思っていた。これでアートな旅が出来上がる予定だった。

仙石原は、強羅から御殿場方面へ、タクシーなら15分ほどの距離にある。新緑の山道を走るイメージだったが、どんどん「霧」が濃くなっていって、景色どころか標識も読めない状態になっていった。事情を知った運転手さんは、仙石原に点在する美術館を、順に寄りながら宿に向かってくれた。とはいえ霧がひどくて、〇〇美術館の看板がようやく見えるだけだ(笑)。結局、翌日は朝から富士山を見に行ったから、美術館巡りの構想は、この看板巡りで終わってしまった。
さて、山手に少し登ったところに宿があった。霧の中に浮かぶアートな宿は、見上げた山の斜面を大胆に使ったデザインで、外観も神秘的でかっこよく見えた。建物までのアプローチ横の水辺の前にレセプションがあって、女性スタッフが笑顔で僕たちを迎えてくれた。彼女のエスコートで建物の中に入っていく、どうやらここは温泉棟らしい。ここから長い長いエスカレーターで本館(宿泊棟)へと登っていくようだ。エスカレーターには照明が仕込んであって、何やら別世界へ入るような雰囲気もある。

客室でのチェックイン手続きの後、スタッフによる「滞在中の企画」の提案を受けた。気に入ったのはルームサービスの「利き酒三種」くらいだが、部屋の湯舟と利き酒の組み合わせは面白そうだ(笑)。部屋の外には広いオープンテラスが付いていて、大きな露天風呂が湯をたたえていた。
ダイニングでの夕食は遅い時刻をリクエストして、館内散歩しながら大浴場へと向かった。ロビーあたりにいるのは若いご家族ばかりで子供も多い。もちろんカップルもいるが、僕たちが最年長な感じだ。大浴場には誰もいないから独り占め状態だ。いまの若い人たちは部屋の露天風呂だけでいいんだろうか。広い「湯上り処」にはフリードリンクやアイスキャンデーがあって、外のウッドデッキあたりでのんびり「整う」ことができる。
ロビーの横には、アートなディスプレイで囲まれたライブラリーがあって、美術やアート作品の書籍が並んでいる。テーブルにはスケッチブックや色鉛筆やクレパスがあるから、勝手なスケッチも楽しい。館内のいたるところに作品やオブジェが置かれている。

食事は、夜も朝も楽しい。若い作家さんが作ったような多彩な食器や道具が多用されていた。テーブルで仕上げたり、けむりや音の演出があったり、とにかく遊び心にあふれていた。スタッフは若くて未熟なのだが、誰もが一所懸命に頑張っている。
翌朝は天候も回復した。朝の風に吹かれてテラスの風呂に浸かると緑の木々の向こうの景色も見通せる。仙石原の平原なのかもしれない、ススキの草原はどこなんだろう。今日は午前中に大涌谷まで行こと思う。タクシーならすごそこらしい。

今になって思うのだが、翌日の強羅の名旅館のそれとは、すべてが正反対なのだ。でもどちらも魅力的で、楽しい滞在だったのは間違いない。あえて共通点をあげれば、ブランディングが上手で、それが働く人にまで浸透していること、そして利用客が若い普通の人ということだ。これが大事なことなんだろう。
へんぴな場所のアートな宿は、ある意味で強羅の名旅館と、伍して戦っていく存在になっていくんだろうな。

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