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2024年02月23日

BARの夜話「1冊の本とカウンター仕事」

そのBARは、片町の裏通りにある。わずか2~3軒の飲食店が入居する間口の狭いテナントビルの1階の、さらに奥のほうにあるから、あまり目立たない感じだ。
12月の金曜日だというのに、少し冷え込んで小雨が降り始めたからだろうか、この裏通りは静かだった。ドアを開けると、左手にけっこう長いカウンターがあり、一番奥の一人客と会話する老齢のマスター(H田さん)が、笑顔で僕たちを迎えてくれた。先客はその一人だけだ、どうやら今夜は店も静かだ。
男ばかり3人の僕たちをカウンターの中央に招くのだが「申し訳ありません、一人でやっておりますので、少しお持たせするかもしれません」などと丁寧に声をかけ、再び奥の一人客との接客に戻って行った。決して失礼な態度ではなく、柔和で客を安心させる口調だった。
このカウンターのバック棚には、ものすごい本数の酒が並んでいる。壮観な景色だった。これは歴史を重ねたBARの証だ。利用する客が欲しがる酒やレシピは無限にあるから、ウイスキーもベースのスピリッツもリキュールも、長い時間とともに増えていくからだと思う。

このBARの創業は1987年らしい。つまり36年の歴史を持つ、もはや金沢では老舗のBARということになる。僕は、かつて(1度か2度だが)訪れたことがある。まだ30代の若造の僕が、金沢を代表する正統派のBARを順に訪ねて粋がっていた頃だ。きっと生意気な客だったはずだ。
最近になって、ここに来ようと思ったのには理由がある。それは、このBARのマスターH田さんの「師匠」のことを知ったからだ。師匠のBARは、札幌すすきのにある「BARやまざき」という。実はこの編集後記(BARの夜話)でも何度か書いたことがあるのだが、96歳で亡くなる直前まで現役を続け、たくさんのお弟子さんを輩出した名店だ。お弟子さんたちは札幌だけでなく全国にいて、年齢から分かるように、さらに多くの孫弟子たちを輩出している。
誰からも愛されるその1軒のバーは稀有な存在となり、あるとき一冊の本として出版された。タイトルは「BARやまざきの系譜」という。本では、やまざき系と称されるお弟子さんたちが、師匠の矜持を、そしてこのBARを語っているようだ。そんなお弟子さんの一人が金沢にいた。しかも知っている店だった。がぜん僕は、そんなお話を直接聴きたくなったのだ。そして今晩、ようやくその機会が訪れた(知ってからもう2年ほど経ってしまったけど笑)。

僕は、ようやく来れたことや、その経緯を、先にお話しすることにした。カウンターに座るただのおっさんが、オーダーをする前に、そんな変な話を始めるわけだから、マスターはきっと驚いたことだろう笑。優しい笑みで礼を言いながら、僕たちの注文を取り、静かにカウンター仕事を始めた。やっぱり所作がきれいだ。
最初に注文したのはサイドカーだ(実は先日の札幌でも同じオーダーから始めた)。すっと、静かに出てきたカクテルグラスの横に、一冊の古びた本が添えられた。読んでみたかった、あの「系譜」の本だった。ご本人はあまり語らないのだが、どうぞ読んでください、ということだと感じた。カクテルを飲み干して、その本を手に取った。
中綴じなどが外れてボロボロになっている(失礼)。でも表紙の裏には、師匠の店の切り抜き記事などのスクラップがたくさん貼り込んであり、つまり大事にしながら、何度も使われてきたことがわかった。僕は、もくじからご本人(お弟子さんのH田さん)のページを探し、静かに読むことにした。どうやら筆者の取材インタビューに答えるような形式だった。取材当時の彼の思いが垣間見えた。読み終えて本を畳んだとき、ようやくマスターが話し始めた。

人生の転機、というものがある。おそらくマスターのそれは師匠の店で、ともにカウンターに立った日々なのだと思う。とても大きな、そして大事な時間だったに違いない。そんな大切なハナシを、ここに書くわけにはいかないのだが、伺った僕は、また今度札幌のその店に戻りたくなってしまった笑。そういえば、札幌の本家?と、この店には、カウンターやバック棚の景色や、仕事する所作、そして流れる空気感に、共通することがたくさんあるような気がする。
マスターの先輩にあたる女性バーテンダーのお店が、やはり札幌にある(おそらくエルミタアヂュという店)。この女性も僕たちより、はるかに年長なのだが、いまも現役でカウンターに立っているそうだ。H田さんいわく、そのカウンター仕事や姿勢が、とても秀逸で美しかったらしい。
そんなお弟子さんたちには、系譜と呼ばれる重圧もある、と僕には聞こえた。だからその女性も、このマスターも、師匠と同じようにたくさんのお弟子さんを輩出したんだと思う。つまり、これからもその系譜は生き続けていくのだろう。
この晩、やっぱり酔ってしまった僕は、今度はその先輩にも会いたくなってしまった。まぁ僕はこんなやつだから、それは単なるお世辞ではなく、何年か後になっても、きっと実現させる気がする。酔っても忘れない記憶もあるのだ笑。

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