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2019年06月28日

悪魔のオーケストラ

二人きりの密室で、彼女がひとりごとを言っている。「あれ、おかしいな、今日は機嫌が悪いなぁ」、彼女の言う不機嫌な状態なのは、僕の態度ではない。目の前の「検査機器」のことらしい。分厚い防音ドアの検査室で、いくつかの検査が行われた。僕の耳にイアホン?に似た機器を差し込み、その反応をモニターで見ているのだが、どうやら、この最後の検査が、うまく進まない様子だ。
耳鼻咽喉科の看護師の彼女は、27期の同級生S美にそっくりだった(笑)。大きなマスクで、小さな顔の半分が見えないのだが、髪型も眼鏡も、背格好も会話の調子も、S美に似ていて、何やら不思議な気分だった。「おかしいなぁ」を繰り返しながら、腰をかがめた中腰の状態で、机の下の本体機器をじ~っと眺める姿や仕草も、S美に見えてきて、おかしくてたまらなかった。結局、彼女はこの検査は諦めたようで、僕は密室の検査室から解放された。

はじまりは、水曜日の午前中のことだった。どうも、さっきから「耳鳴り」がひどい。あの「キーン」というやつだ。その左の耳を触ったり、引っ張ったりしながら気を紛らわした。そういえば昨日も何度か耳鳴りがあったなぁ、疲れがたまったかな、そんな軽い違和感を持ちながら、午前中のデスクワークをしていた。何度か、この左耳の高音の耳鳴りが出ては消え、しばらくして再び、耳鳴りが起きた。今度は大きなゴーっという低音だ。耳鳴りにも高音と低音があるんだな、などと思っているうちに、耳鳴りは止まってしまった。
しばらくして再び「プーン」というやつが来た。キーンとか、ゴーンとか、プーンとか、どれも単調な音だが、ときどき連続して起こる。こんなやつが仮に一緒に鳴ったら、まるで耳鳴りの合唱団かオーケストラだ(笑)、勘弁してくれ。もう歳だからな、などと、あきれて、笑うしかなかった。

昼になり、ハンドルを握り、車で午後の仕事先へ向かった。運転の途中、右足のアクセル付近で、何やらカチャカチャと金属音がする。何か落としたのかな、と信号待ちの時に足元を探したが、落し物は見つからない。
昨日までの耳鳴りの「ソロ」や「合唱」はおさまり、左の耳は、耳鳴りこそしていないが、何か詰まっているような違和感を感じていた。そして左の助手席に鍵束を置いていたことに気付いた。そうだ、右足のアクセル付近で聞こえたのは、左のシートに置いた鍵束の音だ。ようやく僕は、自分の左の耳が聞こえなくなっていることに気付いた。左耳が沈黙していて、左側の音が、右耳でしか聞こえないからだと理解した。

病名は突発性難聴。近所の耳鼻科から始まり、総合病院での、6時間もの長い精密検査の結果、そう診断された。時間がかかったのは、なぜか眼科での検査も加わったからだ。状況と治療方針の説明を受けた。人によって違うらしいが、僕の場合は耳鳴りが前兆だったようだ。まあ地獄へ連れていく悪魔のささやきみたいなものなんだろう(笑)。
さあ、治療開始だ。先生の言いつけを守って真面目に薬を飲もう。たくさんの薬を処方された。薬もオーケストラ級だ(笑)。薬の主役はステロイド剤で、飲むと、とてもテンションが上がるから、朝と昼に飲むのだそうだ。夜飲むと元気で眠れなくなるらしい(笑)。来週はみんなと京都だから、できれば、みんなとうまい酒が飲みたい。それまでに直さないとな。薬の副作用でテンションが高くなるのは好都合だが、できれば悪魔のオーケストラに用はない

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