舌の記憶「そこにしかないもの」
5~6年前のことだろうか、それは驚きの連続で楽しい夜だった。あのときと全く違う料理だ。10品ほどの独創的な美味しさは刺激的だった。シェフの繰り出す世界観に、一発で魅かれたのだ。それは料理にも、食材にも、食器や家具にまで及んでいた。だから「必ずもう一度食べに来よう」と思って店を出た。忙しそうなシェフとは話ができなかった。次回は彼の話をゆっくり聞いてみたい、などと真剣に思ったほどだ。その後、彼の名前は、一気に有名となり、そのレストランは繁盛店になった。そしてついにミシュランで星を取り、ゴエミヨの最高賞にも輝いた。でも結局、僕は行けないまま時が流れた。
たまたまのぞいた知人シェフのSNSに彼が登場した。彼が今の店を離れて、とんでもない山奥に「自分らしいレストラン」を開業する、その準備が始まった、という情報を知ることになった。行くなら今のうちかなぁ、とか、せっかくなら次回は新しい店の方へ行こうか、とか迷いながら、結局、ステイホームという風評の中で、グジグジ決められないままになっていた。
話はさらに昔にさかのぼる。富山の奥座敷に、雅〇倶というデザインホテル?があるという。部屋が凄いとか、茶室が素晴らしいとか、東京の有名店のフレンチが食べれるとか、アートな宿だ、などと事情通の友人から聞かされていた。たいした期待もせず、初めて宿泊したとき、ロビーの造形や川面の静けさ、アート作品が点在する回廊、充実したスパ施設などに驚いた。サービスは???だったが、富山という、その場所に流れる静かな時間に惹かれた。だからファンになった。
当時の彼はここにいた、その「東京のフレンチの有名店」から派遣されたシェフだったようだ。初めて、その店で食事をしたときのことを覚えている。ランチに予約したそのフレンチは、確かに美しい料理だったが、どこか都会的で、計算されたような料理だった。この土地の臭いのない料理だった。だから、使ったのはそれっきりだった。僕は和食店の方がお気に入りで、それが宿泊の目的になっていた。当時のその和食店は「祇園S々木」の支店で、富山の食材を見事に生かした、素晴らしい料理だったからだ(この店は撤退してしまったけど悲)。
あるとき「プロフェッショナル」という番組で取材されるフレンチの「料理人」がいた。映像を観ていて驚いた。このホテルだったからだ。しかし、レストランの内装も料理も大きく変わっていた。何年かの契約が切れて、都会に帰るはずの彼は、富山に残り、そこに自分の店を開いていたのだ。番組は、彼の「生き様」を取材したものとも言える。富山という土地で、富山の食材や、富山の人々に出会い、この土地に惚れ込んだのだという。映し出される料理、素材や生産者への敬意や愛情、そんな彼の生き方にとても興味を持った。
だから番組を観た直後に予約することにした。テレビの影響が大きくなる前に行きたかった。そして訪れた日の感想が、冒頭に書いたことだった。前回とは全く違うレストランに変貌していたのだ。当時の彼は自らの料理を「前衛的地方料理」と呼んでいた。ミシュランの料理分類でいえば「イノベーティブ」という新しいジャンルになる。たしかに従来のフレンチとは違うのだが、彼の場合、その土地に根ざすとか、土地と生きるとか、そんな意味が加わるのかもしれない。楽しくて独創的で刺激的、それが彼の世界観、などと書いたのはそんなことだ。シェフの名前は「T口英司」、レストランの店名は「Lヴォ」という。
最近になって、様々な業界紙に彼の「新しい店」の取材記事が載るようになった。ついにオープンしたようだ。彼が選んだ場所は富山の利賀村というところで、いわく「不便な場所=豊かな自然が残った場所」ということらしい。そして、彼が選んだスタイルは「オーベルジュ」、つまり宿泊施設がついたレストランだ。
敷地の中に畑を作って、自ら育てた野菜やハーブを使う。横のパン工房で毎日焼いたパンを出す。信頼する猟師から受け取るジビエ肉を専門棟で処理、熟成させる。地域の職人たちの「匠の技」が詰まったインテリアや食器で、彼の繰り出す「唯一無二の作品」を食べていく。オープンキッチンから聞こえる「調理の音」をBGMにして楽しんだあと、食後は客室で静かな「自然の音」に耳を傾ける。彼はそんな食事のための「小さな旅」を提案しているのかもしれない。
いつになるか分からないが、また彼の料理に会いに行きたいと思っている。調べたら、僕の自宅からなら1時時間半ほどの距離のようだ。冬は雪で通行止めになったり、夏には夏季休業したりするみたいだ。まぁ行けるのは秋ごろかなぁ、そんなことを思っているうちに、再びミシュランで星を取った。これじゃぁまた、しばらく予約も取れなくなりそうだ(笑)。
彼の新しい店 levo.toyama.jp