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2021年12月10日

いつか旅に出よう「こころが求め始めたかな」

制限解除の報が取りざたされ始めた頃、やたらと旅に出たくなった。タイミングとすれば「もう少しで秋」のころだから、京都をはじめとして全国の紅葉の名所がいくつも浮かんでしまう。以前にも書いた日光や奥入瀬あたりへもう一度行きたい、それは変わらないのだが、今回は何故か「比叡山延暦寺」が浮かんだ。別に紅葉が目的ではない。同時に浮かんだのは「高野山」と「出雲大社」だ。最近、そんなスピリチュアルな場所に行ってみたくなっているのかなぁ。まぁ、紅葉時期のように人出でにぎわうのは苦手だから、できれば静かな時期がいい。そんなことを考えていた。

コロナ渦が始まった2年ほど前、滋賀県へのドライブ旅の予定をキャンセルしたことがある。ある美術館へ向かう旅の予定だった。その後のGoToが始まるころにも再計画したのだが、美術館の開館予定が立たず、やはり断念した経緯がある。
だから再び、その旅のリベンジをイメージした。ドライブで琵琶湖から比叡山まで行くのもいいが、できれば坂本からケーブルカーに乗ってみたい(笑)。最澄や天台宗、その教義などには興味はないから、観光気分なのは間違いないが、1000年以上前から続く「修行の場」には興味がある。信長、光秀による焼き討ちの史実には諸説あると知ってからは、そんな歴史的な興味も湧いているのかもしれない。
そんな、どうでもいいような興味は、高野山(金剛峰寺)についても同じだ。不勉強な僕にとって、比叡山と高野山については、混同していることがたくさんある(笑)。こっちは空海で真言密教、というレベルの知識しかない。同時期に開山した宗教都市(聖地)で修行の場というのも混同する理由かもしれない。あるテレビ番組を観ていたとき、画像として切り取られる伽藍(建物)に、独特の存在感や歴史の重み、いわゆる特殊な空気感や「気」のようなものを感じていた。だから、実際にその場に立って、それを受け止めてみたいと思い始めたのだろう。

そして出雲大社だ。今までも何度も検討してみたが、断念ばかりだ。最大の理由は「とにかく遠い」こと、つまり移動時間が長くなるのが嫌だからだ(笑)。ここへ行きたい理由は「聖地だから」なのは同じだが、比叡山、高野山のそれとは全く違う。まぁ楽しそうだからだ。この原稿を書いている10月は、いわゆる神無月、つまり日本中の神様たちが出雲に集合して会議する(翌年のことを話し合う)のだそうだ。だから出雲の10月は「神在月」というのはご存知の通りだ。
ちょうど還暦のとき、仲間たちと伊勢神宮へ行った。そのときの感覚と、この「出雲大社」のそれは少し違う。えらい神さまたち(やおよろずの神々)が集まってワイワイ話する様を想像するとちょっと楽しい。ジブリの千と千尋のワンシーンを思い出したりして、あんな神様たちが全国の「来年の縁結び」を話し合うんだろうか、などと思ったりする(笑)。そんな神話や言い伝えが、まるで「おとぎ話」のように思える。伊勢神宮には荘厳で神々しいという感じがあるが、行ったことのない出雲大社には、そんな身近な人間臭いイメージを勝手に持ってしまうのだ。だから行ってみたくなる。

ある日のこと「出雲ぜんざい」というやつを偶然見つけて買ってみた。10月の神事を神在祭(じんざいさい)と言い、そこで使われるのが神在餅(じんざいもち)らしい。その餅を使ったぜんざいだ。その「じんざい」がなまって「ずんざい」となり「ぜんざい」になったのだそうだ(笑)。食べた「じんざいもち」は、まぁ普通の餅なのだが、門前町や参道を歩きながら、茶店風のどこかで食べれば、もっとありがたくて、美味しいのかもしれない。
ちなみに「縁結び」とは言っても若い独身男女のそれとは限らない。むしろ「人と人との縁」を結ぶのが神様のシゴトらしい。だから僕たちシニアでも大丈夫ってことだ(笑)。
書きながら、だんだん自覚してきた。僕の心が求めてるのは、けっしてスピチュアルなどという高尚なものではない(笑)。ちょっとした謎とか、秘密とか、そんな些細な刺激が欲しいだけなんだと思う。僕はそんな凡夫の典型だ。

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